今回の台風はあまり京都に近づかずに通り過ぎるみたいだ。日曜日の今日は朝からずっと来るか来るかと待っていたが、そろそろ寝る時間の今になっても風があまり吹かない。

 借りてきたDVDは「ドラえもん」ばかりを繰り返してみて「ちびまる子ちゃん」はちょっとしか見なかった。「ドラえもん」は映画の方もテレビでやってたやつの方もこの週末に3回か4回、繰り返して見て、そのつど娘はおもしろがっている。四十年前のドラえもんを娘が喜んで見ているのを見ると、平成の子供だって昭和のドラえもんをちゃんと面白がれるんだな、と安心する。

 古柳観音のすぐ近くにちっちゃい神社がある、こないだ帰省してここまで散歩にきたときはこの神社の名前も知らず、ちょっと境内に入ってぐるりとあたりを見回しただけですぐに出て来ちゃったんだけど、あとで調べたらここは丹来宇神社という神社で、丹来宇は「たろう」と読む。
 神社の脇に小川があった、小川というか、丸太ん棒をくりぬいたのが樋みたいになっててそこをチョロチョロ水が流れている。丸太ん棒には苔が生えていてだいぶ長い間使われているみたい。へえ、今時こんなのがあるんだ、とちょっとびっくりした、あとで父に聞いた話では、父が子供だった頃この辺りに遊びに来たときに水車が使われているのを見てちょっとびっくりした、という話だった。
 大桁山から流れ出た水がこの神社の脇を通って原を流れ打越を流れて丹生川に合流する。下丹生のあたりではこの流れは打越川と呼ばれていて、打越川にかかるオバグドーの橋のあたりでは僕も子供の頃によく遊んだ記憶がある、遊んだというか、小学校の通学路だから毎日とおった。オバグドーは漢字で書けばたぶん乳母子堂で僕らは橋のことをさしてそう呼んでいたけど、そのあたりに特に何かお堂っぽいものがあるわけではなかった、昔はここにお堂があったのかもしれない。
 しかし乳母子堂は今はどうでもいい。丹来宇神社に話を戻すとこの神社は「群馬縣北甘楽郡史」を読むと保元2年(1157年)に「一宮貫前神社より移し祀りしもの」と書いてある。「大桁山の中腹にて老樹鬱蒼たる裸渓流その側を流れ境内頗る幽邃なり」とも書いてある。僕は原のこのあたりは千年前からあんまし変わってないんだろうと思ってたけどやっぱりそんなことはなくて、「群馬縣北甘楽郡史」が書かれたのは昭和のはじめ頃だから、その頃と比べてもこのあたりはだいぶ変わった。今では丹来宇神社よりも上の方まで家が建ち、畑もあってだいぶのっぺりと開けた明るくのどかな印象だけど、百年ほど前までは太く高い木が生えていたからこのあたりはもっと暗かった、鬱蒼と木が生えてる森の中を流れる渓流の脇にこの神社は建っていたというから、千年前はここが打越川の一番の上流、ということになっていたのかもしれない、人が住む里と森との境界の川の脇に神社を建てた、ということなのかもしれない。
 だけど昭和五十九年発行の「富岡市史」を見ると「原の太郎坂にもとあったが山口に移したともいわれる」なんて書いてあるが太郎坂とはどこの坂のことだろう、小学校から赤岩商店の方に向かう坂のことだろうか。あの坂は結構きつい、原の子供達は毎日あの坂を上り下りしていたのか。
富岡市史」には「神社の傍に石の男根様と赤く塗った疱瘡神のお宮がある」なんてことも書いてある。これはすっかり見逃していた。次回帰省した時に是非とも男根様を確かめてみなくちゃだめだ。