5月1日、水曜日。バーカウンターの後ろにはウイスキーの瓶がずらりと並んでいる。柱や梁は黒光りする太い木。床はふかふかの絨毯。椅子は赤い布がはってある、ホテルのレストランというよりは、バーみたいな感じ。頭をツルツルにそったバーテンダー、背が高くてすらっとしたバーテンダーのおじさんが、カウンターの後ろでニコニコと働いている。お客さんは2組か3組くらいで、わりと空いてる。観光シーズンにはまだ早いのか。アメリカ人ふうの若い女の人、三十歳くらいに見える女の人が一人で壁際の席に座り、ハンバーガーのセットみたいなのを食べていた。お皿にはフライド・ポテトが山盛りになってて、ハンバーガーはたぶんマクドナルドのハンバーガーの二倍くらいの大きさ。あとはトマトか何かの野菜が添えてあったのだったか。女の人はナイフとフォークを使い、ゆっくりとハンバーガーを食べていた。時間は午後8時くらいになっていただろうか。僕らは一番奥のソファーの席に座り、メニューを見てみるのだが、当然ぜんぶ英語でよくわからない。スマートフォンの翻訳アプリをメニューにかざして日本語に翻訳してみるのだけど、いまひとつどんな食べ物なのか想像がつかない。一番安い料理でも一皿4000円くらいする。昼間のケーキだのパンだのがまだ消化されてないみたいで、あまりお腹もすいていない。イギリスのバーは自分からバーカウンターに行って注文するものだ、と聞いていたが、バーテンダーのおじさんが注文を取りに来てくれた。とりあえず三人で一皿たのんでみて、足りなければ追加でオーダーしようということになり、ラムチョップを一皿注文した。ドリンクは娘がマンゴー・オレンジ・ジュースで、僕と妻がビターというビールを一杯たのんで分けあって飲むことにする。いやあ、こんなにうまいラムチョップは初めて食べたなあ! というか、僕はそもそもこれまでの人生でラムチョップという食べ物を食べたことはほとんどなかったんだった、20代の初めの頃にバイトをしたレストランでお客さんが手をつけずに下げられて来たラムチョップを皿洗い場でこっそり食べたのが僕が食べたラムチョップだ。あれは冷めてたし、こっそり食べたんだからゆっくり味わうどころじゃない。急いで噛みちぎって、丸飲みみたいな感じで胃袋に収めたのだった。その俺が、今では一皿4000円もするラムチョップを、もうもうと湯気を吹き出してるほかほかのラムチョップを、でかくてぶ厚くて柔らかくてジューシーなラムチョップを、優しい妻とかわいい娘と三人でゆうゆうと食べてるんだ。僕はいま人生の頂上に立っている気がする。とろとろのマッシュポテトがたっぷり添えてある。ポテト好きの娘はこれを食べるだけでけっこうお腹がふくれたみたいだ。カリフラワーを食べるとソースと肉汁がジュワッと染み出してくる。今回のイギリス旅行で食べた料理の中で一番のおいしさだったし、満足感を感じたし、幸福感も感じたし。バーテンダーのおじさんがまたいいんだ。ニコニコと愛想がいいし。どこの馬の骨だかわからない僕みたいな者にもちゃんと「サー」をつけて話してくれる。「グッド・イーブニング・サー」とか言って。そうか、俺もとうとう「サー」と呼ばれる人間になったのか。なんだかビューティフル・ピープルの一員になったような気分。ビターはグレープフルーツ・ジュースでも飲んでるみたいにくいくいいけちゃうんだけど、意外とアルコール度数が高かったみたいで、妻はちょっと飲んだだけなのにぐったりと酔ってしまう。