葱と蒟蒻の日々

肥田知浩

変なトラックバックをされると迷惑なので僕は困ってしまう

 僕は稽古をみていて、「なんかのっぺりした感じだな」と、漠然とした印象を言うことしかしていないのだけれども、演出者がそんなことを言っているだけではだめである。演出者は芝居にメリハリをつけなくてはいけない。緊張と緩和。テンションとリリース。
 そのためにはどうするか。本を読んでいて、こんな文章を見つけた。

「プロのピアニストはキーに触れてからキーが止まるまでの指の動きを、たとえば一〇に割って、その一つひとつの動作単位に緩急濃淡をつけることができる。ぼくにはそんなことができない。ただ、キーに触れて、それを下まで押し下げるだけで、動作単位はひとつしかない。」p109(内田樹『死と身体--コミュニケーションの磁場』2004,医学書院)

 ここに書いてあるように、表現を割ってゆけば良いのではないか。例えばある場面の演出を考えるときに、その場面をそこで話される話題ごとに割ってみる。それをさらに誰かの台詞とそれに対する受け答えに割ってみる。さらに一つひとつの台詞に割ってみる。一つの台詞を単語ごとに割ってみる。単語を音素に割ってみる。そうやって表現を細かく割って行き、その一つひとつに「早口で」とか、「大きな声で」とか、「低い音で」とか、「目をいったんそらしてまた戻して」とか、「ちょっとうつむきかげんで」とかいうふうに細かく演出をつけて行けば、芝居にメリハリが出るのだろう。
 しかしあんまり細かくやっていくと、芝居全体が見えなくなってしまうかもしれない。演出者はもっと芝居全体を考えなくてはいけない。全体を見つつ、細かいことも見つつというバランスが必要なのだろうな。

 また、同じ本にこんな文章も見つけた。
「プルーストの『失われた時を求めて』では、つまずいてよろけた瞬間にありありとむかしのことを思い出すという有名なくだりがありますね。一九世紀までは、ある構えをすると身体記憶、過去の体感が、場合によっては自分自身が経験していない他者の体感がよみがえってくるというのは「常識」だったんです。」(同前)p115
 ある構えをすることで体感をえるというのは、佐野史郎が『怪奇俳優の演技手帖』に書いていたことに通じる。佐野史郎はこう書いていた。「その身体の状態を正確に作ってさええれば、あとは台詞を言えばいいだけ」だと。体感がまずあって、台詞はその体感のついでにしゃべればいいのだ。