養蚕、丁稚、オクナメ丼

noise-poitrine2014-01-30

 『新潮』の「電車道」。1月号を読んだときには、このままこの養蚕の村を舞台にして『百年の孤独』みたいに、鉄道とともに発展して行く村が描かれて行くのかな、と思ってたのだけれど、2月号では場所が京都に飛んで、ぜんぜん違う話になっちゃった。
 僕の生まれ育った農村でも養蚕がさかんで、父も母も子供の頃は家で養蚕の手伝いをしていたというから、僕は父母の子供の頃の様子なんかを思い浮かべながら1月号を読んだ。「一匹を取り上げてしげしげと見てみれば、さらさらと乾いた白い肌は作り物めいて清潔で、目尻の下がった物悲しげな顔つきも虫というよりは犬か豚のようで愛嬌があった。しかもこの虫はときどき昼寝までするのだ、なんて呑気なんだろう! なんて人間的なんだろう!」
 今ではもう養蚕をしている家は見かけなくなってしまったけど、僕が子供の頃はまだまだ近所でも養蚕を続けている家があって、隣の家の「バラック」と呼ばれるお蚕さんを飼っている小屋にいくと、カサカサというか、シュクシュクというか、そんな音がしていたな、とぼんやり思い出したり。「十万匹の蚕がいっせいに桑の葉を食んでいるとき、辺りは小雨が降るような音に包まれる。幼い子供たちはその音を恐れて泣いた。」
 2月号は京都で丁稚をする少年の話。何年か前に青少年活動センターのボランティアで老人の伝記をつくったことがあったんだけど、そのときにお話を聞いた高橋さんも丁稚をしていたことがあるという話で、それを思い出す。高橋さんは去年の夏に亡くなった、というのを青少年活動センターの西田さんからの年賀状で知らされた。
 小学校卒業したんが昭和八年で、三月に卒業して四月から寺町仏光寺下がったとこにある津久間新助とゆう紙屋で働きはじめまして。丁稚ちゅうてね、住み込みで働くわけです。十二や十三ゆうたらまだ子どもでっしゃろ? はじめて親元を離れまして、はじめの三日ぐらいは毎日泣いてましたかな。
 丁稚の仕事ゆうたらもう、毎日配達ばっかりでね。三輪車ゆうんがありまして。三輪車ちゅうのは案外うごかしにくいんですよ、坂はえらいし、くだりは危ないしね、曲がるのは大回りをせんとひっくりかえってしまいますから。もう、雨ふりもなにも配達ばっかりですよ。せやけどね、やっぱり小学校あがったくらいではなかなか思うように仕事なんかできんもんです。
 このお店に背の高い長吉さんゆう人がいまして、その人と一度ごはんの食べあいをしたことがあります。たしかそのときお茶碗にごはん十何杯食べましたかな。
「おまえらいつまでめし食ってんねやー!」
 ゆうて怒られましたわ。
 そこは一年弱でやめたんですけど、やめるちょっと前に、郵便ポストに手紙を出しに行ったんですよ、そこで脳しんとうおこしましてね。西村ちゅう刷毛屋がありまして、今でもありますけど。帰りしなここへうーっと来て、塀にもたれてたらしいですな。お医者につれて行ってくれはって、もう少し遅かったらあの世行きでしたゆうてね、そんなんがありましたけどね。
 で、そこを三月ぐらいにやめて、それから帰ってしばらく家にいたら、わたしのあにきが松森さんへ勤めてたんですけど、そこの大将の弟さんが大阪で店を出すからちゅうて、遊んでるんやったら行ったらどうやちゅうことで、昭和九年の七月二日に松森商店大阪支店ゆうとこへ行ったんです。そこへ行く途中で京阪電車が事故にあって止まりましてな、それから一駅かそこら歩かされまして。妙なことをね、そんな日だけはしっかり覚えてるんですな。
 松森さんは紳士用品雑貨を扱う卸問屋で、革ベルト、ネクタイ、サスペンダー、ランドセル、そんなものを置いてました。ランドセルはそのころ四角い箱形のランドセルで、それを自転車に六十個ぐらいつんで配達に行きます。わたしは自転車乗れませんから丁稚乗りちゅうてね、左足を三角んとこにつっこんで、わたし右乗りですから、右足をこう、つっぱって乗るんですけど、堺までそれで配達ですよ。
 店は間口二間半、奥行き十間なかったですよ。そんな店にランドセル、大八車にだーっと何百と積んで持って来はるんですよ。入り口にそないランドセル積まれたら、出るとこどうすんのやなと思いましたけど。そういうのを配達したり、送ったり、山口県から今でいう韓国、平壌あたりまで荷物送ったりしてました。
 わたしが松森さんに入った年の九月二十日でしたかね、台風が来まして。今は台風ちゅう言葉がありますけど、そのころは台風ちゅう名前がなかったんですからね、予報もなんにもないわけですから、
「なんやこの風は!」
 というふうな。ものすごい風でしたから。店の子どもさんがふたりいはって、その息子さんと娘さんを小学校まで送りに行って、帰りしな傘をさそうと思ったらさせなんだんですから。
「えらいこっちゃな、この風は……」
 ちゅうて。
 二メーターぐらいの看板が店の前に置いてあったんですけどね、それが何百メーター先まで飛んでるんですから。ものすごい風です。風速六十八メーターですからね。家の屋根の物干が飛んでるんやから。屋根瓦ぜんぶぶわーっとめくれた家がありますから。
 まあそれで台風がすんで、商売するちゅうたかて十四や十五ではなかなかね、人にものすすめたりね、お茶出すのも精一杯ですやん。四年五年ぐらいかかりましたかな。なんとか商売がわかるようになったのははたちくらいからですかね。丁稚の先輩がふたりほどいたんですけどね、先輩とお客さんのとりあいですよ。お客さん来はったら、
「いらっしゃいませー」
 ゆうてね、とんでくんですわ。お客さんとられんように先輩は、
「やすきち、配達!」
「やすきち、荷造り!」
 ゆうて。それいわれたらせんわけにいかんでしょう。しょうがない配達行ったりして、そんなんで夜遅くまでようけ仕事してましたな。午前二時三時まで荷造りして、それが終わって向いのうどん屋でうどんを食べるんです。今でも夜中まであいてるラーメン屋ありまっしゃろ? ああいうのとおなじですわ。そのころうどんがたしか六銭でしたかね。たばこもそのころゴールデンバットが六銭。銭湯も六銭。お給料はひと月一円でした。一円あればうどんなら何杯たべられるんやろ。なんや大金のように思いました。他の店に行ってるものに聞くと、二円もろてるとか、四円もろてるとかありましたけど、わたしのとこは小さいお店で、親方とおかみさんと、あと丁稚が三人だけですがな。わたしのおやじがね、でっかいお店にいったら経理なら経理だけしかやれん、それよりは小さいとこで配達でも仕入れでも荷造りでもなんでもやっていろいろ覚えたほうがええちゅう、そういう考えの人でしたから。
 京都に帰る電車賃は片道一円二十銭でした。ひと月の給料が一円やから、それでは帰れないんですよ。結局京都に帰ったのは二、三回だけでしたな。帰るためにお金貯めるよりは新世界の劇場行って、レビューみたり映画みたりしてました。レビューゆうんは、足をこう、ぱかぱかあげたりする、まあ、踊りみたいなもんですかな。一度レビューみて外でてきたら着物の帯がなくなってたことがありまして、安物の帯しめてましたんで、だんだん緩んで来るんですな、人絹の帯で。それで帯がほどけてるところを、誰かうしろから歩いてる人に引っぱられたか踏まれたかして、外でてきたら帯がなくて。せやけど帯探しに戻るゆうたかてすごい人ですよ。わーっと人が出てきますから、その中を戻るゆうんはね、なかなかそんなことできやしませんがな。あきらめて帰ってきましたけど、まあそんなこともありましたな。

 昨日のライブには寺田君のお兄さんが広島から聴きに来てたんだけど、このお兄さんがものすごく気前のいいお兄さんで、バンドのメンバー全員にビールをおごってくれたばかりか、「打ち上げに使え」と寺田君に2万円渡して、10時10分京都駅発の新幹線に乗るために9時50分にネガポジを出て行った。タクシー飛ばしてもぎりぎり間に合わないんじゃないかしら、とドラマーのキャプテン・パニックと一緒に心配する。
 ネガポジは何といっても丼が充実していて嬉しい。ネガポジでライブをするときはわざと晩ご飯を食べずに行き、何かひとつ丼を注文する、というのがこのごろの僕のたのしみとなっている。昨日食べたのは「オクナメ丼」。オクラとナメタケと大根おろしと刻み海苔で、つるつるとまるでドリンクのようにごはんがのどを通って行く。これを演奏前に飲んで、演奏後にはお兄さんに貰ったお金でハイネケンと塩焼きそば。なんかスパイシーな感じのピリ辛な焼きそばで、これもつるつるとのどを通っていく。ドラマーのキャプテン・パニックは野菜だけ先に食べて、麺と肉をあとから食べる派。それは嫌いな野菜を先にやっつけてしまい、好きな肉と麺をあとから存分に楽しむ、ということなのか? と訊くと、いやいや、野菜も肉も麺もすべて好きで、俺は塩焼きそばをこの順番で食べて行く工程すべてを愛しているのです、とのこと。
 僕はベイビーに会いたいので演奏後30分ほどで帰ったが、あのあと打ち上げは盛大に行われたのか。みんな飲みたいお酒をごくごく飲んで楽しく打ち上がってたのかしら。