宇宙の膨張

 昨日は朝から雨が降っていた。保育園に送っていく娘に、
「**ちゃん、パッパ着ようか」
 というと、娘は、
「カッパ着る」
 と、いつの間にかカッパをちゃんと発音できるようになっている。うまく発音できなかったサ行の音もじょじょにうまく発音できるようになりつつある。いつまでも「カッパ」を「パッパ」と言っていて欲しい、「フック・ブック・ロー」を「フック・ルック・ボー」と言っていて欲しい、と思うけれど、そういうわけにもいかない。
 娘が生まれたばかりの頃、僕は娘に「おとう」と呼んでもらいたいと思い(僕が自分の父親のことを「おとう」と呼んでいるので、それと同じように自分も呼ばれたいと思っていた)、折に触れては自分の鼻のあたりを指さして、「おとうだよ」と言い聞かせていたのだけれど、赤ん坊の娘が僕の顔を見上げながら口にしたのは「とと」という言葉だった。いや、「とと」よりは「てょてょ」に近かったかもしれない。あのとき娘は何ヶ月くらいになっていたのか。一歳をすぎていたのかいなかったのか。坊主頭に近いような短い髪の毛の、まるっこい頭が浮かんで来る。ちょっと寒い時期だったような気がする。太陽は空の低いところにあって、その光が玄関のガラス戸を通して部屋にさしている。僕は台所と畳の部屋をしきるベビーゲートの前に立っている。その足下に娘がいて、娘ははいはいの姿勢で手をついて僕を見上げ、口をモゴモゴさせて「てょー、てょ」といった。台所にいた妻がこちらを見て、
「いま、呼ばれたんじゃない?」
 といった。僕はしゃがんで娘に顔を近づけて、自分の顔を指さしながら、
「おとうだよ」
「てょー、てょ」
「お、と、う」
「てょー、てょ」
 娘に初めて名前を呼ばれた瞬間というのは、僕の人生の中でもかなり印象的な瞬間のはずなのに、だけどそのときの記憶はなんだかあやふやだ。嬉しかったはずだけど、僕は今これを書きながらあのときの嬉しさがうまく思い出せない。娘がどんな顔で僕を見ていたのか、娘の顔もぼんやりとしか浮かんで来ない。もしかしたら、あのときの僕にはちょっとした気味の悪さみたいな気持ちもあったのかもしれない。昨日まではもにゃもにゃと意味のない音しか発していなかった存在が、急に意思を持ち、思考して、僕に向かって言葉を投げて来た! ということにとまどっていたのかもしれない。
 その赤ちゃんが今ではもう二歳になり、日曜日などはブロックで遊んだりしながら一日中独り言を言っている。お昼ご飯を食べたあと、お昼寝をさせようとふとんに寝かせても、親の方が先に眠ってしまい、娘は眠る親の横でひとりブロックで家か何かをつくりながら延々ひとりでしゃべっていたりする。
 そんな娘を見ていると、僕はこの二歳という年齢の娘とこれまでずっと一緒にいたような気分になっている。もう何年も前から、ほとんど永遠と言えるくらいずっと前からここにはずっと二歳の娘がいて、この先もずっと二歳の娘がこの場所にい続ける、そんなふうに考えているふしがある。
 二年と何ヶ月か前まではこの部屋に娘はいなかった。いま娘がブロックで遊んでいる空間にはブロックで遊ぶ者は存在しなかった。娘が感じる嬉しさや悲しさもこの空間には存在していなかった。娘がいま存在しているこの場所には僕と妻しか存在していなかった。その同じ場所が、今では娘の笑い声や泣き声や話し声で満ちている。
 ちょっと前までは赤ちゃんだった。あの赤ちゃんは一体どこへいってしまったのか? と、ときどき考える。僕と妻の間にやって来た、丸くてちいさくて、グーに握った自分の手をなめては「あー、あー」といっていたあの赤ちゃん、しゃべることなんて思いも寄らなかったあの赤ちゃんは一体どこにいってしまったのか? それがどこへも行っていないのだ。娘はいまでもここにいる。僕がこれを書いている隣の部屋で眠っている。あの赤ちゃんが大きくなってこの二歳の娘になったのだ、ということはもちろん僕だって知っている。だけど、ふと、あの赤ちゃんといま眼の前にいる娘とがどうにも結びつかないような気がするときがある。
 あの赤ちゃんとはもう二度と会うことができないのか、と思う。だけど、サギノモリラボの演劇を観たとき、二歳の息子を連れて来ていた五木さんは、もう一度、赤ちゃんのときのこの子を抱けるはずだ、という強い思いがある、と言っていた。あれはどういうことだったのだろうか。
 サギノモリラボの演劇を観に行ったのは去年の秋のことだった。娘はそのとき一歳を少しすぎた頃で、僕たちが観に行った回は乳幼児も入場できるという土曜日の昼の回で、僕と妻と娘は三人でこの演劇を観に行った。このときに、小さな子供を連れた僕の友達というか知り合いというか演劇仲間が五、六人集まった。僕は二十代の頃に演劇をやっていて、そのときに一緒に演劇を上演した俳優やスタッフの人たちが三十代になったいまでは〇歳から二歳くらいまでの子供の親になっている。あらかじめメールをやりとりして、観劇のあとでお茶をしよう、久しぶりに会うことだし、子育ての話でもしようじゃないか、ということになっていて、メニューに離乳食もあるカフェ、赤ちゃんづれで街に来た人がそこで食事をしたりオムツを替えたり子供を遊ばせたりできるカフェ、というのを長沼さんが予約しておいてくれた。良く晴れた天気のいい日で、河原町には大勢の人が歩いているその中を縦一列に並んで、僕たちはそれぞれベビーカーを押したり、子供を抱っこひもでお腹にくくりつけたりしてカフェに向かって歩いた。僕だけが父親で、他は全員母親だった。子供たちのほとんどが人生初の観劇だったため、母親たちは自分の子供が上演中に見せた反応に興奮していた。
「ごめんね、うちの子、ずっとしゃべっていてうるさかったでしょ」
「うちは最初のうちはじっと集中して観ていたけど、途中からむずがり出した」
「途中で外に出ることを覚悟していたけれど、でもけっこう静かに観ていてくれたから、へえ、と思った」
 僕の娘は母親の膝の上に座って観劇したのだった。劇場というのは舞台は明るいけれど客席は暗いものだから、娘はその暗さを嫌がって泣くかもしれない、座って演劇を観ることなどできず、立ったまま抱っこしてあやしつつ観劇することになるかもしれない、だからなるべく通路に近い席にすわろうね、などと心配していたのはしかし取り越し苦労で、娘は終演まぎわまでじっと集中して舞台を見ていた。ときどき、舞台を指さして僕の顔を見上げる。
「あそこで何やら珍しいことが行われているが、あなたもあれを見ているか? あなたもあれを良く見ておくべきだ」
 とでもいいたげな顔だった。
 カフェではそれぞれ離乳食を頼んだり、お子様ランチを頼んだり、家から持って来たレトルト食品を子供に与えたり、うんちが出た、こんなにたくさん出て恥ずかしい、とオムツを替えにトイレにいったり、そして子供はお座敷席の隅に置かれた家の形をしたプラスチックの遊具の中に入って遊んだりしながら、その合間に近況報告や子育ての話が交わされた。
「四人とか五人とか子供を産む人っているでしょ? そういう人ってもう一回、うまれたばかりの赤ちゃんを抱きたいって思うからなんかな?」
 という話になったとき、五木さんはこういったのだった。

「いつか、この子がもう一度生まれたばかりの赤ちゃんに戻るんじゃないかなって思う。もう一度、赤ちゃんのときのこの子をだけるんじゃないか、っていう思いがいつもどこかにある」
 おかしなことをいう人だな、と思ったからあのとき五木さんが言った言葉がいつまでも頭に残っている、ということなのかと思わなくもないのだけど、なんだか五木さんに妙に共感するような気持ちもあって、あ、なんとなくその気持ち分かる、と思ったから僕は五木さんの言葉を忘れることができない。赤ちゃんのときの娘の姿を一生懸命記憶しておけば、赤ちゃんのときの娘と過ごす時間を眼や耳や皮膚などの自分の体に覚えさせておけば、いつかまたこのときすごした時間を再生することができるんじゃないか、というような気がして、僕は赤ちゃんの娘との時間を記憶しようとした。ビデオテープを再生するみたいにあの時間をいつかまた再生できる、などと本気で考えていたわけではない。いつか、遠い未来に、僕は〇歳の娘と過ごしているこのときに戻りたくてたまらなくなるにちがいない。そうなったときに、せめて少しでもこの時間を鮮明に思い出すことができるようにしっかりと覚えておこう、と言う気持ちがあった。けれど、自分が老人になったときのために、などとずっと考えていたわけでもなくて、娘と過ごすことができる時間はほんの少ししかないはずなのだから、なるべくこの少ない時間を気持ちよく、楽しく、ハッピーにすごそう、というふうにも思っていた。
 娘が我が家にやって来たばかりの頃は、この赤ちゃんとどうやってつきあって行ったらいいのだろう? この人は何が好きで何が嫌いなのだろう? どうやったら喜ぶのだろう? と、さぐりさぐり抱っこしたりあやしたりしていたものだったけれど、あれから二年ほどたった今になって、やっと娘と打ち解けてつきあえるようになってきた。というのは、娘の人柄だとか性格だとかがだんだん分かってきたからだ。娘はだんだん誰かに似て来ているな、と思うことがあるのだけど、その誰かというのは娘自身だ。娘はだんだん娘に似て来ている。このぶんだと、娘が小学校にあがる頃には娘は小学生の頃の娘にそっくりになるにちがいない。そんなことをときどきぼんやりと考えるのだけれど、これはどういうことか。僕は小学生の頃の僕の娘に会ったことはまだない。
 前に読んだ小説に、時間とは宇宙の膨張のことだ、ということが書いてあった。英語の勉強をしようと思って丸善に行ったら、『夜に起こった犬の奇妙な事件』というような題名のペーパーバックが平台に置いてあり、これが読めればトーイックが何点くらいはとれる、といったことを書いたポップが貼ってあった。パラパラとめくると顔文字みたいな挿絵や算数のパズルみたいな図形が載っていて、おもしろく読めそうな気がして買って来た。あまり辞書を引かずに読んだのでおおざっぱにしか小説の内容が分からなかったのだけど、たしか自閉症の男の子が主人公で、ある夜にこの子の隣の家で飼っていた犬が殺される。その犯人を捜す、といった筋だったと思う。この本の割合最初の方に自閉症の男の子が時間について考えるところがある。時間というものは宇宙が膨張することで時間がたつ。というか、時間とは宇宙の膨張のことで、宇宙が膨張し続ける限り時間は過去から未来に向かって流れ続けるのだけれど、宇宙の膨張も無限に続くわけではなくて、いつか遠い未来に膨張が限界に達したとき、宇宙は中心に向かって縮み始める。そのとき時間はどうなるのか? と自閉症の男の子は考える。時間はビッグバンに向かって逆流し始めるんじゃないか。冷めてしまった太陽はまた徐々に熱を取り戻し、太陽に飲まれて消えた地球はふたたび太陽から生まれて太陽の周りを回り出し、滅びた人類はまた地球の上で生活を始める。のだけれど、こんどの人たちは前回の人生を逆からたどり直すことになる。墓場から老人が生まれて、だんだん若返って行き、赤ん坊に戻り、母親のお腹に飲まれて死んで行く。人類はそのようにして次々に母親のお腹の中に消えて行き、最後の一人も猿人のお腹に消えて行き、猿人も消えて行き、生き物たちはアメーバみたいな単細胞生物に戻ってしまい、やがて生命も消え、地球も消え、太陽も消え、最後にビッグバンにたどり着く。
 そのあと宇宙はどうなるのか。そのまま消えてしまうのか。もしかしたらビッグバンのはずみでもう一度ビッグバンが起こるのか。宇宙はもう一度膨張を初め、時間は過去から未来に向かって流れ始める。という膨張と収縮を宇宙はもう何度も繰り返して来た、という可能性だってあるんじゃないか。だとしたら、僕のこの人生は何度目の人生なのか。過去に何度か同じ人生を繰り返した可能性だってなくはない。前回や前々回の僕の人生で僕は小学生の娘と会っていた。前回は宇宙が収縮していたときだから、そのとき僕の娘は老人として生まれて大人の時間を経て子供に向かって若返った。小学生の娘は保育園を卒業してからやがて二歳になり、保育園に入園し、一歳になり〇歳になり母親のお腹に飲まれていった。僕が僕の娘を懐かしいように感じるのはそういうわけだったのじゃないか。前回の人生で会った僕の娘にそっくりなんじゃないか、この娘は。とそんなことを考えてみたりして、僕は僕の娘にどんどん親しみを感じるようになっている。