上賀茂神社、運動会

一週間ほど前から急に寒くなってそれまで昼間は半袖Tシャツで過ごしていたのがもうTシャツの上に長袖を2枚着ていたりして夏から急に冬になったようだと思っていたら昨日の土曜日はそこそこ暖かくてこういう暖かい日は外で過ごさなくちゃもったいないから家族3人で植物園に行った。金曜日の夜に明日はお休みだよ、どこか行きたいところある? とお風呂の中で娘に訊くと娘はだいたい上賀茂神社か植物園を答える。両方とも家の近所にあって広い芝生をどこまでも走り回ることのできる場所で、娘はとにかく広い場所に行くとテンションがあがるようで、わーっと走り出して「くまさかせんせー!」なんて大きな声で僕を呼んでそうすると僕はかこさとしの『どろぼうがっこう』に出て来るくまさかとらえもん先生になって「まてー!」と娘を追いかけるのだが、そのときの娘の笑顔が娘のいろんな表情のなかで一番生き生きしている。おいしいものを食べるのとかテレビで『魔女の宅急便』を見るのとか絵本を読んでもらうのとかおやつを食べるのとか娘にはいろいろ好きなことがある中で広い芝生を走ることが一番顔が輝く。こないだの8月で娘は3歳になった。18歳まで一緒に暮らすとして6分の1が過ぎたことになる。まだ3年しか一緒にくらしていない、まだ始まったばかりだ、と思っていたけど6分の1と考えるともうそんなに時間がすぎちゃったのか、残された時間はあと6分の5しかないのか、と驚く。あと何回植物園や上賀茂神社に行けるのか。夏と夏の終わりの頃はほとんど毎週のように上賀茂神社に行っていて(僕と娘の二人だけで行くことが多くて妻はその間に家の掃除などをしていた)夏の暑い日はサンダル履きで神社の浅い川に入ってから木のベンチに座ってクッピーラムネかたべっこどうぶつを食べた、涼しくなってからは川には入らずに芝生のあたりを歩いたり走ったりして芝生に等間隔に並んだ穴を見つけては「あなっぽこ!」と娘と二人でげらげら笑う、馬小屋に白い馬が来ているときは人参をあげたり遠くから眺めたりする、柄杓で手を清めてからお参りに行き賽銭箱に5円玉か5円玉がなければ1円か10円を入れて「まんまんちゃんあん」をする、結婚式があればお嫁さんを見る、というのをほぼ毎週しつこく繰り返したのは上賀茂神社に2歳の終わりから3歳のはじめ頃の娘を覚えておいてもらおうという考えが少しあったからで、あと10年か20年か30年たって僕が上賀茂神社に行って広い芝生とか浅い川の前に立てば僕はきっと2歳か3歳の娘を思い出す。できればずっと2歳か3歳の娘と一緒にいたいけどそれは無理なのでせめて今の時期の娘をありありと思い出したい、上賀茂神社に今の娘を記憶してもらえば僕はいくつになっても上賀茂神社に来るたびに2歳か3歳の娘に会える。僕が死んでいなくなったあとでも上賀茂神社が2歳か3歳の娘をずっと記憶していてくれればいいと思う。
保育園の運動会は今年でもう3回目だ。全部で6回運動会があると思っていたけど、子供は毎年成長して変わって行くからその歳の子供の運動会はその年に一回だけしか見ることができない。去年までは保護者席に一緒にいて自分の出番の時だけ入場門に集合していた娘が今年はもう開会式の時から親と離れて友達と手をつないで入場して行く、去年は僕が娘を抱っこして開会式に出ていたのだったが娘と遠く離れて保護者席から手をくわえて娘を見ているだけというのが手持ち無沙汰というか所在ないというか何かもの足りないようだ。年長組のお兄さんに手を引かれて、はとぽっぽ体操の時は娘のふりまわす手が他の子供たちとぶつからないようにお兄さんが娘に「ここに立つように」「もうちょっと離れるように」と指示を出しているのを遠くから見ていると「ああ、普段も保育園でこんな風にお兄さんたちに面倒を見てもらっているのだな、それにしてもあのお兄さんは立派だな」と5歳くらいの子供を見上げるようなあこがれるような気持ちになるのはどういうわけか。娘は保育園の歌だってちゃんとぱくぱく口を動かして歌っていた、大勢の中でも物怖じせずにちゃんと歌える子に育ったのだな、と安心する。もう今年からは娘は親と一緒にかけっこをしない、一人で走る。去年は僕は娘と手をつないで走ったものだ。娘も僕も走り出すとテンションがあがってしまい自分たち二人だけでキャッキャと笑いながらゴールを駆け抜けたのだったが本当はゴールで待つ先生の胸にとびこんで行くのがゴールだったのに僕と娘は先生の横を通り過ぎて退場門まで走り抜けそうになっていたのが今年は娘はちゃんとひとりで先生の胸にとびこんで行く。親子の競技は今年もあった。マットの上50センチくらいのところに横に渡したハシゴをハイハイで渡って行く娘の横について娘が落っこちないように見ている、というのと「むっくりくまさん」だ。くまさんになった親たちが一カ所にあつまってしゃがんで眠ったふりをする、そのまわりを子供たちが円になって手をつなぎ歌いながらぐるぐる回る。

むっくりくまさん、むっくりくまさん、穴の中
眠っているよ、グーグー
寝言をいって、ムニャムニャ
目をさましたら、目をさましたら、食べられちゃうよ
くまさーん

の最後の「くまさーん」の呼び声で熊である大人たちが目をさまして、食べちゃうぞーと自分の子供を追いかける、子供たちはキャッキャと逃げ回る、親が子供をつかまえると子供は身をよじって笑う。さあ、今度は交代です、お父さんお母さん、手をつないで円になってください。子供たちがクマさんになってしゃがんで眠る。ちゃんと目をつむって両手のひらを合わせたのをほっぺたの横に添えて寝たふりをしている、目をつむっているけど、まぶただとかほっぺただとかに必要以上に力がはいっていて今にも笑い出しそうな顔で、というかほっぺはもう笑っていて目の回りにシワをよせてギュッと目をつむっているまわりを大人たちが手をつないで歌をうたいながらぐるぐる回る、このあとに待っている楽しみとスリルにわくわくどきどきしている自分の子供の顔はふだんの生活ではあまり見ることのない顔で、大人はその顔から目が離せない。幸福感がこの場に充満している、吸い込む空気に幸福が溶けていて濃い。子供が立ち上がって山で「ヤッホー」とさけぶときみたいに両手を口にあてて「くまさーん」と呼ぶと大人たちが一斉に自分の子供を追いかけ始める。僕の娘はこのときはいかにも嬉しそうな顔をして口を開けて笑いながら左に走ったり右に走ったりちょこまかちょこまか動いているんだけど僕の姿がぜんぜん目に入っていない、獲物がどこから自分の視界に入って来るのかと期待しながらちょろちょろしている、というこの2秒か3秒くらいのこの時間は額縁に入れてずっと部屋に飾っておきたいような、それを見ればいつでも元気がわくような、いつでも幸福感に満たされるような、そんな2秒か3秒だった。