ああ、タンメンとはうまそうなものだな

 そのラーメン屋は高幡不動の駅前にあった。野菜が山盛りになった味噌ラーメンがおいしくて、僕はバイトの給料が出たときや、最近ちょっと栄養が足りないなと思ったときにはそこで味噌ラーメンを食べることにしていた。スープもすべて飲み干すことにしていた。僕は七年前の2002年に高幡不動から京都に引っ越してきたので、それ以来高幡不動には行っていない。駅前の様子はだいぶ変わったという噂を聞いているけれど、あのラーメン屋さんはまだ残っているのだろうか。僕が住んでいる間にも高幡不動の駅前はどんどん変わって行って、31アイスクリームがなくなり、住友銀行の建物は取り壊されて新しい大きなビルになり、住友銀行三井住友銀行に変わり、その銀行のわきには新しい広い道ができて、僕がバイトしていた花屋さんに駅からすぐに行けるようになり、それから僕が大学を卒業するころには、僕が高幡不動に住み始めたころ(僕は大学に入ったときに高幡不動で一人暮らしを始めたのだった)からずっと工事中だったモノレールまでが開通した。モノレールの走る街なんて、まるで小学生のときに図画工作の時間にみんなで描いた21世紀の絵の景色みたいじゃないか。あのモノレールに乗って高幡不動から立川に行ったときに窓から眺めた景色には感動したものだ。感動と書くと少し大げさかもしれないけれども、それまで下から見上げていた建物を上から見下ろすという体験は、今まで見ていた世界が違って見えるという体験で、やっぱりあのとき僕はきっと感動したのだったと思う。
 ラーメン屋で出会った親子の話を書くつもりだった。ラーメン屋でタンメンを食べていた親子の話だった。ある日の午後、三時か四時ごろ、僕がひとりで味噌ラーメンを食べていると、ぶらりとひとりおじさんが入って来た。どんなおじさんだったかはもう忘れた。太っていたのかやせていたのか、はげていたのかいなかったのか、眼鏡はかけていたのかいなかったのか、すべて忘れた。白っぽい服を着ていたような気がするけれど、それもぼんやりとした記憶であまりあてにならない。おじさんはタンメンを注文し、バイトの大学生がタンメンを持ってくると、割り箸をパチンと割ってタンメンを食べ始めた。バイトの大学生はまだ仕事に慣れていない感じで、というか、社会というものにまだ慣れていない感じで、少しおどおどとしていた。それまでは田舎で家族や友達にかこまれて過ごして来たのが、大学に入ったとたんにいろんな他者とコミュニケーションをとるはめに陥りとまどっているみたいな、そんな感じのバイト店員だった。
 おじさんがタンメンを三分の一くらい食べたところで、がらがらと店の引き戸を開けて小学生の女の子が入ってきた。女の子はおじさんのとなりに座ると、おじさんからレンゲを手渡されて、タンメンのスープをおいしそうに飲み始めた。あれは寒い日だったのじゃないかしら。ラーメン屋の外では冷たい風が吹いていたのではなかったか。女の子は実においしそうにスープを飲んだ。おじさんは食べかけのタンメンに少しも未練なんかない様子で割り箸を女の子に手渡して、そうすると女の子は野菜を食べたり、麺をすすったりして、それがいかにもうまそうだった。僕はそれまで味噌ラーメン一筋で、タンメンは食べたことがなかったのだけれど、その味噌ラーメン一筋の僕も「ああ、タンメンとはうまそうなものだな」と思いながらそれを見ていた。バイト店員がグラスに水を入れて女の子の前に置くと、女の子はその水もうまそうにごくごくと飲んだ。おじさんと女の子はあまりたくさんはしゃべらず、
「お母さんは?」
「まだ買い物してる」
「そうか」
と、それくらいしか言葉を交わさなかったのだけれども、その少しの会話から、相手を信頼した家族の心地よい空気みたいなものがふわっと立ち上がってくるようで、そうするとやはり女の子が食べているタンメンがすごくうまそうに見えて来たのだった。おじさんが満足そうに目を細めてテレビを見上げて、野球中継だかニュース番組だかを眺めていた様子が思い出される。どんな顔だったかは思い出さないけれども、どんな表情だったかということは、僕の記憶に残っているようだ。
 鴨川で見た親子はお父さんと女の子二人だった。このラーメン屋の親子はお父さんと女の子ひとりである。人数が合わないじゃないか。それに高幡不動で見た親子と鴨川でみた親子との間には十年間の時間の開きがあるというのに、女の子はちっとも成長していないではないか。だから鴨川で見た親子とラーメン屋の親子が同じ親子であるはずがない。そんなことは僕だってちゃんと知っていた。知っていたけれども、この二組の親子の間には何となく共通する雰囲気があって、それはもしかしたら僕が持つ理想的な父と娘の関係ということになるのではないか。そしてその理想の父娘は、僕の人生のいろんな場面でひょっくりひょっくりと思いがけなく僕の目の前に現れて、そうすると僕は「あ、またあの親子がいるよ」と懐かしいものに再会したような気持ちになるのじゃないかしら。
 しかし、こうやってとりあえず結論をだしてしまうとこれがただひとつの正解のようになって固まってしまい、今後このことについて考えを巡らせることを僕はしなくなってしまうのではないか。しかし本当にこの結論が正解なのかどうかなんて実は結論を書いた僕にも分からないことである。僕はもっともっとずっと父と娘の印象について考え続けるべきなのじゃないか。