世界の中心で

 善行堂で買った『美濃』をさっそく読み始めた。小島信夫が自分の生まれ育った岐阜のことを考えながら書いた小説のようで、岐阜出身の知り合いのことなどがこれでもかこれでもかと次々に書かれている。僕は岐阜には行ったことがなく、岐阜のことで知っているのはどうやら岐阜には養老天命反転地があるらしいということだけで、『美濃』に出て来る岐阜出身の絵描きの人の話を聞かされても「そんなの知らんがな」などと思い、それではぜんぜん興味を持たずに読んでいたのかというとそんなわけでもなく、岐阜とは関係のない群馬のことをしばしば思い出しながら僕は『美濃』を読み進んでいったのだった。群馬のことが勝手に頭に浮かんで来て、むしろ群馬に気を取られているうちに意識は小説の中の岐阜から離れてしまい、ぼんやりと窓の外などを見ながらひとしきり群馬のことを考えて、気がつくと眠っていたなどということがこれまでに何度かあった。
 僕は群馬で生まれた。大学に入って高幡不動に引っ越すまでの十八年間を僕は群馬で過ごした。
 「しかし自分の生まれたり育ったりしたところを、世界の中心だと思う考えは、すこしも珍しくないのだ」
 『美濃』にこう書かれているのを読んで初めて僕は自分が群馬を世界の中心だと思い込んでいたことに気づいたようである。東京に住んでいたときは、僕は世界の中心から電車で二三時間ほど離れた場所で今は暮らしているのだということを薄々感じていたのではなかったか。イギリスに旅行に行ったときも、ずいぶん遠く世界の中心から離れてしまったな、という意識を持っていた気がする。グリニッジ子午線が通っているからといって決して自分が世界の中心に来ているなどとは考えられなかった。飛行機に乗って世界の中心の群馬のそばの東京に戻ったときには、やっと世界の中心の近くまで帰って来られたなと安心したような気分になったのではなかったか。京都に住んでいる今だって、やっぱり世界の中心から結構離れた場所で生活をしているなという、漠然とした心細さのようなものをつねに感じている気がする。
 僕は群馬の保育園に通い、群馬の小学校に通い、群馬の中学校に通い、群馬の高校に通った。群馬の高校ではバスケットボール部に入っていたけれども、バスケットボールのことはあまり好きではなく、高校一年の冬休み明けの百人一首の試験で高得点をとったことから百人一首同好会に入りませんかとの誘いを受けて、言われるままに何度か百人一首の試合に出たりなどして制服を来た女子高校生と畳の上で向かい合って膝と膝とをつきあわせて百人一首の取り合いをしているうちに札よりも僕の目の前で正座している女の子の膝小僧のほうに気を取られて試合に負けたり、膝小僧を見ないように見ないようにと集中してたまに勝ったりなどして、バスケットボールよりも百人一首のほうがおもしろいかもなどと思っているうちにあっという間に高校を卒業して、それから高幡不動に引っ越したのだった。
 百人一首をしているのはかわいい女の子が多かったように記憶している。男子高校生と試合をした記憶は頭に残っていないのだけれども、それは僕が「この記憶は要りません」と言ってそれを捨ててしまったのか、それとも本当に女の子とばかり試合をしていたのか、どっちだろう。
 そしてそんなことを考えていると『美濃』のほうは一向に進まず、群馬の記憶ばかりが僕の頭に浮かんで来るのだった。あのとき見た膝小僧が今でもくっきりとまぶたに残っているように思うけれども、その膝小僧はあとから合成した作り物の記憶であるような気もしなくはない。