イギリス旅行その4 プレタ・マンジェ

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 この日のお昼ご飯、イギリスで初めての食事に入った店は、僕は英語の店の名前がなかなか覚えられなくて、「セインズベリー」だの「セルフリッジ」だの「フォートナム・アンド・メイソン」だの「メイソン・アンド・ディクソン」だの「マークス・アンド・スペンサー」だの、いろんな名前がごっちゃになっちゃうんだけど、このとき昼ごはんに入った店は妻に確認すると「プレタ・マンジェ」というお店で、本当は「ゲイルズ」でパンを食べたかったのだけれど、雨が降って来ていて、ゲイルズだと外に出ている、道ばたの、屋根のないテーブルになっちゃうから「安心のチェーン店で食べることにした」ということで、さっきそれを聞くまで僕はこの日雨が降っていたことも忘れていた。

 なんで屋根がある店が良かったのかというと、妻はカフェに入って落ち着いてスマートフォンSIMカードの入れ替えをしたかったからで、SIMカードはイギリスで使える「スリー」というやつを日本でアマゾンで二千円くらいでふたつ買って持って来ていて、ふたつというのは妻のアイフォーンSEと僕のアイフォーンSEの分で、妻がプレタ・マンジェのテーブルで小さいSIMカードをプラスチックの板から取りはずして自分のスマートフォンにセットしているところを僕は動画にとっていて、これを今見てみると妻はうんと難しい顔をしていて、未知の場所で未知の人々に囲まれて、果たしてこんな小さなカードを入れ替えただけで本当にネットがつながるようになるのだろうか? といぶかしみながら作業をしている妻の顔が今まで見たことがないほどけわしい。眉間にシワがよっている。

 そのけわしい顔は作業が難しいからというよりも、席に着く前に僕たちがこうむったストレスにも原因があって、とにかく席に着くまでがひと苦労で、いや、実際ひと苦労というほど苦労をしたわけではないのだけれど、初めて本格的に英語で注文をしなくちゃならないし、自分の英語が通じるのかどうかもまだ分からないし、店員の人に何か言われたらそれを聞き取る自信もないし、オイスターカードを買うときに一発で買えなかったクレジットカードがここでちゃんと使えるのかも半信半疑だし、そもそもどうやってサンドイッチを買うのかも分からず、かといってあんまりまごまごしてると「あいつらはおのぼりさんだ」と見破られてしまい、ロンドンにはびこるというひったくりやら詐欺師やらニセ警官やらにつけ込まれてしまう。それに、なんと言ってもサンドイッチが高い。

 出発前「妄想ロンドン会議」を聞いていたら、いまのロンドンでは普通のなんでもないサンドイッチが1000円もするという話をしていて、ええ、それはやばいね! とビビっていたのだけど、それが冗談でも誇張でもなくて本当に1000円だった。なんか、硬いパンに冷たいチーズだの野菜だのをはさんだやつと、トルティーヤに野菜をくるんだやつと、あと、もうひとつ硬いパンにアボカドか何かをはさんだやつを三つ「これ、勝手にとっちゃっていいんだよね?」と恐る恐る冷蔵の棚から選んで「いや、万引きなんかするつもりじゃないんですからね」と目立つようにちょっと持ち上げ気味に手に持って、「この列に並べば良いのだろうか? それともこの列はレジの前のクロワッサンとかを買う列、あるいはお茶を頼む列なのか? しかし、列はこれしかないのだから、サンドイッチを買う人も同じこの列に並ぶので良いのだろうね? このあたりの作法は日本と同じ感覚で間違いないのだろうね?」とキョロキョロしながら列に並び、緊張しながら会計を待った。

 それにしても、こんな寒い日に冷蔵のサンドイッチを食べるというのが今ひとつ気が進まない。できれば、レジのところにある焼いたパンみたいな、クロワッサンみたいな、そういう暖かそうなものを食べたいのだけど、店員の人と交渉してそれをゲットする勇気がわかず、とりあえず入り口付近にあるサンドイッチを手に取ったのだったから、なんだか自分が進んで食べたいと思っていないものをなぜか買うハメになっちゃってるという釈然としない気分がどうものどのあたりにひっかかっていて、あまり食欲がわいてこない……。

 レジのお兄さんが「イートイン・オア・テイクアウェイ」みたいなことを言って、ああ、このセリフは聞いたことがある、出発前に何度も英会話の本のCDで聞いたセリフだ。あのCDでこの質問を受けたメグミ・ナカハラは「イートイン・プリーズ」って答えてた。それで僕もメグミの真似をして「イートイン・プリーズ」と答えるとこれがちゃんと通じるのだから、ここでちょっとだけ自信が出た。何か一緒に飲み物もいるかと聞かれて、僕はカフェラテふたつとティーひとつを注文して、合計で5000円。ティーはイングリッシュ・ブレックファストを頼んだのだけど、カウンターで飲み物を渡してくれる係の女の人はカップをカウンターに乗っけて、客席に向かって「ホワイト・ティー!」と大声で叫んでいて、僕はこれが僕が注文したティーなのかどうかがよく分からず、とりあえず「俺はイングリッシュ・ブレックファストを頼んだのだけど、これがそうなの?」という顔をして見せてみると、店員の人がうなずくような雰囲気を出したので、カフェラテふたつとそのホワイト・ティーを持って妻と娘が待っている席まで飲み物を持ってくると、妻はサンドイッチを食べるのもそこそこにさっそく肩から斜めがけにしているカバンからSIMカードを取り出して作業を始めたのだった。

 まわり中に元気な家族やら元気なカップルやら元気なおばさんやらの大声の会話があふれていて、もう、なんか圧倒されちゃって、サンドイッチの味なんて、うまいのかまずいのか全然わからない。「ラーメンとかうどんとか、何かあったかいものが食べたいなあ」などと思いながらもさもさするパンを食べていた。娘も緊張して顔がこわばっている。妻は眉間にしわを寄せてSIMカードの説明書を読んでいる。

 だけどもティーだけはとにかく熱々で、この熱々さ加減にちょっとホッとして、ああ、この、熱い紅茶を飲んでホッとするっていうのがイギリスの人なのだろうなあ、と熱い紅茶にイギリスを感じた。こないだ見たクリストファー・ノーランの『ダンケルク』でも、海岸から脱出しようとする兵士は船に助けられるたんびに熱々の紅茶を配られていたなあ、あの人たちの気持ちがわかるような気がするなあ、と思う。

 この日は昼食を食べてからヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に行ったのだけど、本当は自然史博物館に行こうと計画していたんだった。それが、自然史博物館の前まで行ってみたらものすごい行列で、行列が何重にもうねうねと折り返していて、ここに並ぶのはちょっと時間がもったいないな、ということで隣のV&Aに行き先を変更したのだった。