ムササビ

 磯崎さんにとって動物とは人を守ってくれる存在なんだな、と『電車道』を読みながら思う。「でも、この列車にも動物が乗っているのならば安心だ、敵さんの爆弾も命中しようがない」。しかし動物が列車に乗っていたら、どうして敵の爆弾が命中しないのか? 敵の爆弾が命中するかどうかは、列車に動物が乗っているかいないかなんて関係ないはずなんだけど、でも、なんとなく「そうだそうだ、命中しっこないんだよな」と納得してしまうのはなぜなのか。僕には娘がいる。娘こそはかけがえのない存在なのだから、この世界から簡単に消えてしまってはいけない存在なのだから、娘と一緒に歩く僕のところに車がつっこんで来るはずがないんだ、世界がそんなことをさせるはずがないんだ、と僕が思い込んじゃうのと同じような感じなのだろうか。人がペットを飼うのは、ただペットがかわいいから、というだけじゃなくて、ペットを飼うことでペットに守られていると思うことができるからなのか。
 「過去の自分を馬鹿にする者は、過去の自分から馬鹿にされている者でもある」。今の僕は高校生の頃の僕に馬鹿にされるようなおとなになっていないだろうか、と考える。高校生の頃の僕は世間知らずで、臆病で、ねくらで、パッとしない人だったけど、でも、パッとしないなりに「人はなんのために生きるのか?」とか「幸福とはなにか?」みたいなことをときどき考えていたように思う。「そんなトルストイみたいなことを考えていたなんてああ、なんて青臭い」と高校生の自分のことを笑ってしまって、仕事と子供の教育のことばかりにはげんでしまっては生きている甲斐がない。37歳のおっさんになっても「人は何のために生きるのか?」という青臭いことを考え続けていたい、というそのためにこそ僕は劇作家をしているんじゃないかしら?
 「ああ、あいつは若くて体力があり余っていた、二十三、四の頃の俺だな」。磯崎さんの小説には過去の自分を見る場面がいくつかある気がする。こういうのに僕は弱いんだ。というのは、僕が自分の生活を生きて行く中でときどき過去の自分を見るような気がすることがあるからなのだろうか。ああ、あそこを歩くあのパッとしない高校生は高校生の頃の俺だな、みたいな。
 「しかしじっさいには若い頃の予見が当たったということでもなかった、人間は老いれば老いるほど、現実の体験など追い求めずとも過去の記憶とその反芻だけで充足できるようになるということを、今では男は学んでいた。だがちょっと待て! それは真実か?」と磯崎さんは書くのだけど、この「だがちょっと待て!」というのはなんなのか? だれが「ちょっと待て!」と言っているのか? やっぱし作者の磯崎さんなのか。これはつい筆が滑ってもっともらしいことを書いてしまった自分に対するツッコミなのか。過去の自分(過去といっても一行前とかなのだけど)が嘘くさいことを書いてしまった、ということに今の自分(一行あと)が疑いの眼を向けている、ということなのか。磯崎さんの書く小説は常にこのように自分の書いてしまった文章に疑いの眼を向ける、といことのくり返しのように見える。
 そしてこのあとにムササビが出て来る。「新聞紙でもちり紙でも、紙には異常な興味を示した、紙を見つけると走り寄っていって、器用に前歯を使って自分の身体と同じぐらいの大きさの円形に切り取ってから、それを押し入れのふとんの裏に隠しにいった」とか、このあたりを読んでいると僕は自分の娘が赤ちゃんだったときのことを思い出して懐かしいったらしょうがない。いや、娘が前歯で紙を切り取ったとかではないのだけど、人間のおとなとは別の行動原理にもとづいて動いている感じが「ああ、この人はこの世界を僕とはぜんぜん違うふうにみているのだなあ、紙きれ一枚がそんなに大切なのか、それにしても俺はこの世界をなんと一面的にしか見ていないことなのか」とかわいい。そしてこのモモンガを見まもる犬は「ぜったいに吠えたりはしない」。「自分よりも小さな弱い生き物を守るようにただじっと見つめている犬の賢さ」、ということで、やっぱり動物(犬)はこの世界を守ってくれている存在みたいだ。ムササビが焼け死ななくて本当に良かった。もっとも、磯崎さんは意味もなく小説の中で残酷に動物を殺してしまうような人であるはずがないのだ。
 僕にとって妻はいつも強くたくましく頼りになる存在で、この妻がいてくれればこそ、僕ら3人の家族は安定して平穏な生活を送ることができるのだ、と常々感じているんだけど、「クヌギの幹に立て掛けただけのぐらぐらと軋む梯子を、戦争中から着続けているモンペ姿の妻がこともなげにするすると登っていく」と、磯崎さんの描く妻もだいぶたくましく強い。「あなたは私のいうとおりにしていればいいの、そうすればちゃんとうまくいくんだから」みたいなことを言っていたのは、あれは小島信夫の「馬」に出て来る妻の人だったかしら、ということも思い出す。
 そしてムササビの放野。「せめてもう一粒、ヒマワリの種を与えてから放してやろうと思っていたのに……」というこのとりかえしのつかない感じ。僕は子供の頃に学校の体育館で観た対馬丸の漫画映画を思い出す。戦時中、沖縄かどこかの子供が島の外に疎開するために対馬丸という船に乗る。お母さんは島に残る。対馬丸は出航する時間になっても一向に出航する気配がない。見送りに着ていたお母さんは、このぶんだとまだまだ出航しないだろうね、と、それじゃあ、一度家に帰って息子の好きな黒砂糖をとって来てやろう、と家に帰って黒砂糖をとって来るのだけど、お母さんが黒砂糖を持って港に戻って来てみると、対馬丸はすでに出航してしまっていて、お母さんと息子はお別れの挨拶もできず、黒砂糖を渡すこともできなかった、というどうにもやるせない場面があって、それを僕は映画を観てから三十年たった今でも忘れることができないんだけど、この取り返しのつかなさ、みたいなのは、やっぱし人生にもれなくついてくるものなんだな、と思う。
 「もしも国内のどこに行くにしても未舗装の、黒土と砂利と水たまりだらけの道路のままだったならば、日本はどんなに素晴らしい国だったことか!」というのは常識と逆のことを書いている。常識では、日本中の道路が全部舗装されて、どこにでも車で行けたらこんなすばらしいことはない、と思われているんじゃないかしら。しかし、「歩いて行って帰って来られないような場所には行く気もないし、行く必要もない、遠くへ行くには鉄道を使えば良い」というのを読むと、そうだそうだ、そのとおりだ、と思ってしまう。スーパーファミコンで「シムシティー」をやったとき、僕は道路をひとつも敷かず、線路しか敷かなかった。その結果どうなったか? 人口が減ったりしたか? そんなことはない。人口は順調に増え続け、公害も減り、すべてがうまく進んだのだった。いや、「シムシティー」のことはあまり関係ない。「シムシティー」はどうだっていい。僕が娘と散歩に出かけるとき、あるいは一人で道を歩いているときでも、車があんまり我が者顔で道を通って行くので腹が立つことがある。「歩行者の俺が横断歩道に立っているのになんで車のお前は俺を無視して平気で俺の前を通り過ぎるのか? 歩行者がいたら横断歩道では止まりなさい、と教習所で教えてもらわなかったのか? だいたい俺がこんなにも右手をあげているのに俺の右手が眼に入らないのか?」
 そして百貨店。いや、この百貨店はちょっとだけ小説が脱線するだけなのかな、と思って読んでいたのだけど、この脱線がいつまでたってももとに戻らない。というか、話のメインがもう百貨店に変わってしまっている。「だが私たち家族は」と、主語まで百貨店で買い物をする「私たち」に変わっている。あれ? 百貨店で買い物をする人たちを遠くから眺めているつもりが、いつの間にか自分が百貨店で買い物をしていましたよ、みたいな、自分で気がつかないまま百貨店の中に投げこまれていた、みたいなのがすごく面白い。
 「子供じみたやり方であればあるほど、こちらとしても手が出せないのも事実なのです」。子供じみたやりかたならば簡単に手が出せそうにも思ってしまうけど、実は逆に手が出せなくなっちゃう、というカフカ的な世界。そして行き着くのはとっくのまっくにどこかに消えてしまったと思っていたイギリス人技師。イギリス人技師よ、てっきりあなたはどこかに消えてしまったかと思っていたが、こんなところで金鉱山を掘っていたのだったか。
 「彼らは昼日中から赤ら顔で、身体じゅうの毛穴から脂を噴き出し、足を組んで、背中を大きくのけ反らせた姿勢で椅子に座るようになった」。身体じゅうの毛穴から脂を噴き出すはずないじゃないか、というこの大袈裟な感じが好きすぎてたまらない。宮崎駿の映画にこんな場面があったような既視感。あれは『千と千尋の神隠し』だったか?
 「生年から一年一年指折り数えて確認してみたが」と、さらっと書いちゃうけど、いや、無理でしょう、そんなの。37歳の僕だって37年の自分の人生を生年から指折り数えて確認することができないもの。という、無理なことをさらっと書けてしまうのが小説の力なのだなー、と思う。さらっと書いてあることに「こいつう、いい加減なこと書きやがって」みたいなことは思わず、「ああ、すごい、さらっと嘘を書いている」と感動してしまう。というのが小説の力なのか。
 そしてこのタイミングで新キャラ登場と来るのか。この隠し子は、なんと、114ページで出て来た、犬を連れて電車で信州に逃げちゃったあの少女のその後だった。そうか、あの少女はあれっきり小説から姿を消してしまったのかと思っていたけれど、こんなにあとになって、再び登場することになるのか。しかもこの先、主人公的な立ち位置でこの小説をひっぱって行くっぽい。