気がついたらもう四月だ

まだ2月くらいの感じでいたんだけど、カレンダーを見てみたらもう四月のなかばになっていたんでびっくりする。そいうえば桜も咲いていた。桜を見ると、ああ、なんとか1年間生きのびることができたな、という気がいつもする。仕事とか家事とか子育てとかをだましだましこなして、寒い中自転車こいで山を越えて通勤したりしてたのが、やっと暖かくなって、それでああ、今年もなんとか桜の季節にたどり着くことができた、とほっとする。

こないだ純子ちゃんと一緒に、山下残さんのダンス(と呼んでいいのかしら、あれは?)を観に行った。舞台でおしっこをしたり、はしごを上って天井にいるネズミを捕まえたり、床に飴をまいて「大地の恵み。ありがとう」と言ったり、ミラーボールを回してそれを3分間くらい見上げていたり、電話がかかって来て受話器を取って、その受話器に向かってひたすら咳をしたり。ああ、舞台ってこれでいいんだよな、と安心した。お客さんを感動させようとか、傑作をつくってやるぞとか、誰かに褒められたいとか、舞台をやるときにはそういうことをいろいろ考えちゃうんだけど、そんなことはどうだっていいんだ、自分で「あ、これ、なんかちょっとおもしろいな」と思ったことをただ舞台でやってみて、それを人に見せればそれでいいんだ。と残さんに教えてもらったみたいな気がする。

仕事の休憩時間などに、磯崎さんの『電車道』をちょっとずつ読む日々。もう、この話はどこに向かっているのか、というのがぜんぜん見えず、やみくもに、強引に、ひっぱり回されていくような感じがすごくおもしろい。おもしろいというか、なんだ、この力強さは、とびっくりしながらただただひっぱられていくのがひたすら気持ち良い。タヌキの追跡の場面とか、読んでいるこちらも夢中になってタヌキの後を追いかけているんだけど、そこに急に「教師と生徒はまったく気がついていなかったのだが、じつはこの夜の一部始終を、地元の役場から派遣された若い男性職員が見ていた」と、タヌキの後を追う人たちを外から見る眼が現れる。そんな人に見られていたなんて俺もまったく気がついていなかったなあ、いやあ、思いがけなかった、と僕は思うんだけど、もしかしたら作者自身も、この文を書くまで男性職員の存在に気がついていなかったのじゃないかな? という気がしなくもない。作者自身さえも予想していなかった人が出て来たりするんだから、読者だって予想がつくはずがなくて、そうするともう、ただあんぐり口をあけて「へえ、そうなるのか!」と予想外の方向へ展開していく小説に置いて行かれないように必死でくっついて行く感じ、というのが読んでいてとても気持ちがいい。
「校長もヨーヨーを借りて試してみたのだが、こんな幼児のおもちゃを学校に持って来た上に、授業を無断欠席するとはけしからん! いったいこれのどこがどう面白いというんだ? などと形ばかりの説教をする余裕すら与えられず、一瞬にしてたみまち、校長じしんがヨーヨーの魅力に囚われてしまった」という文章は、前半を読んでいるときは校長が怒っているのだと思って読むんだけど、それが後半になると校長は怒っているのではなくて、ヨーヨーに夢中になっていることになっっている。てっきり怒られているのかと思ったのに、校長はヨーヨーみたいな子供のおもちゃにハマっているのか、と文章の意味が途中でくるっと反転する感じがとてもいい。しかし昭和初期におとながみんなヨーヨーなんかに夢中になっていたというのは本当なのだろうか。うそくさいけどありそうな話ではある、作り話なのか本当の話なのか、どっちもありそうだ、という微妙なところがおもしろい。
そうかと思うといつの間にか小説は少女と犬の信州への逃亡という話になっているし、それも少女たちが塩尻駅に着いたところで唐突に終わる。少女と犬はその後どうなったのかという説明とかオチとかがないまま「それにしても」とか言って平気で話題が変わって行く、というこのさらっとした感じが好きだなあ。

電車道

電車道

四月になると英語の勉強をしたくなるのはどういうわけなのか。さあ、新しい学年になったぞ、今年こそは英語の勉強をちゃんとしよう、という学生時代の春の空気が僕の身体によみがえってくるからなのか。僕はゼーバルトが好きなんだけど『土星の環』だけは日本語訳の本が品切れで、アマゾンのマケプレで買おうとすると8000円とかするので、英語訳のペーパーバックを取り寄せて読み始めた。英語の勉強をやりなおすぞ、というこの熱意は、いつも夏が来る前にはどこかに消えてしまうのだけど、今年はどうか。いつまで続くか。

土星の環―イギリス行脚 (ゼーバルト・コレクション)

土星の環―イギリス行脚 (ゼーバルト・コレクション)

ゼーバルトの小説も、話題が予想外の方向に転がっていく感じがしてそこがとても好きだ。サフォークあたりを歩いていたら全身麻痺になって入院して、病室の窓から外を見たらカフカのザムザさんもこんな風に窓の外を見ていたのかしら、と思ったりして、そういえばあの頃はまだミカエルさんは生きていて、病室の窓から見えたあの街で生活していたのだな、ということに話がうつっていって、そのミカエルさんが死んだときにひどく悲しんだジャニーンさんはフローベールの研究をしていて、フローベールの往復書簡に書かれている文章をながながと暗唱することができるのでびびった、というふうに話はころころと変わって行く。

「ネイティブが英語をおぼえるみたいにただひたすら聞き流すのがいいのだ」という話を聞くけど、あれは嘘だな、と思う。言葉を覚え始めた1歳の娘を見ていると、聞き流すどころではない。同じ言葉を何度もなんども聞いて、真似して口に出してみて、というのをひたすら続けている。僕は「歌えばんばん」なんかは、去年の秋から多分100回くらい歌わされているんじゃないか。娘は右手の人差し指を頭の上にあげて「もっかい」と僕に「歌えばんばん」を歌うことを促す。そして自分でも途中まで僕の真似をして一緒に歌う(こういうのを英語の勉強では「シャドーイング」というのだろうか)。絵本だって同じ絵本を何十回も読ませるし、これもやっぱり親が読むのを一緒になって口まねしようとしている。人はこうやってものすごい努力を重ねて言葉を覚えていくのだなあ、と思う。「赤ちゃんが言葉を覚えるように自然に……」とかいうけど、赤ちゃんにとっても、言葉を覚えるのは簡単なことじゃあないのだ。