おとしこし

 クリスマス。22日に僕がベイチモのライブに行っている間、妻がひとりで家で画用紙を切ってピニャタをつくってくれていた。娘へのプレゼントの太鼓も妻が買ってくれたし、クリスマスについては妻に丸投げ、おんぶに抱っこで申し訳ない。娘はピニャタをたいそう気に入り、寝室の壁にくっつけたそれを指さしては、「トトはどれがいい?」「**ちゃんはあれ(がいい)」と飽きもせず見上げている。

 大掃除。は、窓を拭いていると娘が「**ちゃんもー」と手伝いに来て、しかし娘が手伝ってくれるとべちゃべちゃの雑巾から畳の上に水をしたたらせたりとかで掃除はぜんぜんはかどらず、今回の大掃除は未完のまま終了。ふだんものぐさな僕は掃除をやり始めるとスイッチが入り「ああ、あの拭きのこした窓をぴかぴかに磨きたい!」などと思うのだけど、しかし次回、次々回の大掃除のときには娘が思いのほかちゃんと床を磨いてくれたりして、物足りなく思うことになるのかもしれない。もういちど畳をべちゃべちゃにされて「ああ、もー」とか思いたい、とか思うのかもしれない。

 大晦日、妻の実家でおとしこし。娘の好きな絵本『やまのこどもだち』におとしこしの場面があるので、「今日は『やまのこどもたち』のこの場面のようにおとしこしをする、明日からは来年になる」と娘に説明をする。妻の実家には『やまのこどもたち』を持参し、寝かしつけをしながらお年越しの場面を読んでやり、おとしこしの歌を一緒にうたう。

 かれこやいて
 ひっくりかえしてやいて
 だれにくわしょ

 かれこやいて
 ひっくりかえしてやいて
 まごにくわしょ

やまのこどもたち (岩波の子どもの本)

やまのこどもたち (岩波の子どもの本)

 紅白歌合戦は5分くらいしかみず、妻の弟が友達から借りて来たという『スター・ウォーズ ジェダイの帰還』のDVDを観る。最後に出て来るアナキンの幽霊が若いハンサムなアナキンになっていた。子供の頃に「金曜ロードショー」か何かでみた時は、アナキンの幽霊は太鼓腹のおっさんだったはず。エピソード1、2、3を撮影した後で差し替えたのか。映画を見終わるとすでに12時をまわって今年になっていた。

 元旦はバンドの友達らと初詣。伏見稲荷に行く。午後二時にしようと決めた集合時間を午前十時に変更。そのためみんなに迷惑をかけた。新年そうそう俺は何をやっているのか。お参りの後は昼間から居酒屋で飲む。さんざん飲んで食べて店を出てもまだ外は明るかった。日暮れ前にみんなと別れて妻の実家に帰るとすきやき。これも腹一杯食べて妻のお父さんと日本酒を飲んで。ごちそうさまでした。

 気がつけば娘はもうすぐ二歳半になる。中井久夫の本によると、子供は二歳半から記憶の文法が変わるため、二歳半以降に経験したことはおとなになっても覚えているのだという。娘が二歳半になってしまえば、これまでのようにのらりくらりと娘とつきあって行くわけにはいかない。そろそろ本腰をいれて子育ての勉強をしようと思う。今年は特に食べ物のことに力を入れたい。
 娘は二歳の今から花嫁修業だ。うまいめしの作り方、食事の作法、などを娘に身につけさせたい、そのためにはまず僕がそれらを身につけて娘に手本を示したい。で、ブック・オフに行ったり図書館に行ったりして食に関する本を入手する。
 食事のマナーについて書かれた本を読んでいたら、寿司はさっぱりとした白いものから食べ始め、その後こってりした赤い魚にうつり、最後に巻物、お吸い物、の順番で食べるのが良いでしょう、と書いてある。僕は30年前に小学校の先生から聞いた言葉を鵜呑みにして、マグロの赤身から寿司を食べていたのだったが、俺のこの30年間はなんだったのか。寿司の食べ方くらい、ちょっと本を読めば書いてあるのだ。だのに、そのちょっとの手間を惜しんだためにこのざまだ。これからは白いイカから寿司を食べよう。
 子供の頃におとなから聞いたり、あるいはおとながしているのを見て真似をしたりしていたあのこと、このことは実際はどうなのか。正しいのか間違っているのか。たとえば、子供の頃の僕は穴をほじくるようにしてマーガリンを使っていたのだったが、それをみた父から、マーガリンは上の方からこそげとるように使いなさい、と教えられた。しかしおとなになってみると、マーガリンを端っこから縦に切り取って使っていく人もいるらしい、ということを学んだ。どっちの使い方の方がエレガントなのか。どっちでもいいのか。それとも本当にエレガントな人はマーガリンなど口にせず、パンにはバターをぬるのか。

 最近の昔話の絵本は桃太郎が鬼と仲良くなったり、カチカチ山でタヌキがお婆さんを殺さなかったりしてけしからん、という話はちらほらと耳にしていて、それは確かにけしからん話だ、俺はそんな軟弱な絵本など買わないぞ、と思っていたのだったが、しかし気がついてみれば僕は娘に読んでやる絵本に「死」が出て来るたびに「死」という言葉を娘に伝えるのに抵抗を感じている。たとえば、『あんぱんまん』の一番最初のページで、おなかのすいた旅人は今にも「しにそうになって」いる。ここを読む時、「しにそうになっていました」という文章を声にだして読む時、どうも僕はこれを声に出して娘に伝えたくないと思っている。生き物はいつか死ぬんだぞ、きみの大好きなカカもトトもいつか死ぬんだぞ、いや、それどころかきみだっていつかは死んでしまうんだぞ、ということをまだ娘には教えたくない。もちろん、二歳の娘は絵本に「死」が出て来てもその意味がまだ分からない。だけども。「死」といういまわしい言葉から娘をなるべく長いこと遠ざけておきたいと思ってしまう。

 映画館で新しい『スター・ウォーズ』を見た。Xウィングやミレニアム・ファルコン号が飛ぶところをもう一度観られるなんて。チューバッカにもう一度会えるなんて。しかも映画館で。しかも3Dで。映画館で聞くライトセイバーのあの「ブオーン!」という音のなんとしびれることか。3Dのライトセイバーはもちろんスクリーンからこちらに飛び出していた。