ロックフェス

noise-poitrine2017-05-14

ここ何日か毎晩イエスの「フラジャイル」か「危機」を聴いている。20代はじめ頃によく聴いていたアルバム。サイモンとガーファンクルの曲「アメリカ」のカバーは、原曲とイメージが違いすぎて、僕はしばらくイエスのオリジナルの曲だと思い込んで聴いていたものだった。レンタルショップから借りてきてカセットテープに録音して聴いていたのは「イエス・ソングス」だったか。テープのA面とB面にうまくおさめられるように、曲の時間を計算して、録音する順番を入れ替えたりしていたけど、今じゃあカセットテープと同じくらいの大きさのアイフォンに何千曲も入れて持ち歩ける。あの頃はこんな未来は想像がつかなかった。想像したこともあったかもしれないけど、自分とは関係のない未来みたいに思っていた。まさかそんな未来に自分が住むことになるとは。「この曲とこの曲は長いから両方同じ面に録音できないから、この曲の代わりにこっちの短い曲を持ってきて、A面はこの並びにして、、、」とか、一人暮らしの部屋で夜中にあれこれ考えるのは、それはそれで楽しかった。イエスの曲は長い曲が多い。

家族三人でロックフェスに行く。愛知の蒲郡のあたりで行われる「森、道、市場」というフェス。

ライブなどの文化的な催しは妻がネットで見つけてきてくれて僕と娘は「わー、楽しそー」とついて行く、というのが最近の我が家のパターンで、今回も例に漏れずそれ。最寄りの駅で降りるとおしゃれな若い男女が行列になっている。おしゃれな若い人たちに囲まれてみると自分がいかにも野暮ったい格好をしているような気になる。自分が若い人のカテゴリーから徐々に外れつつあるのを感じる。
あの会場には人がどんだけいたのか。千人とかじゃ足りなくて一万人とか二万人とか。一万人とか二万人とかのおしゃれな若い人たちの中に混じっていると自分がビューチフル・ピープルの一人になったような気になってくる。屋台がいっぱい出ていておしゃれな若い人たちがカレーだのフォーだのかき氷だのの屋台に行列になっている。食べ物を売る屋台だけじゃなくて雑貨屋さんとか本屋さんとか家具屋さんとかまでが店を出している。本屋さんのお兄さんは屋台の中に設置した椅子に若い女の人を座らせて似顔絵を描いている。似顔絵屋さんも兼ねているらしい。青空の下で海からの風を受けつつのんびりと本屋の店番をしながらビューチフル・ピープルの似顔絵を描いて暮らす、という生き方もこの世にはあるのだなあ、とちょっと羨ましいような気持ちになる。実際は苦労も多いんだろうけど。
娘は僕の肩車でかき氷を食べながら知久寿焼さんのライブを聴く。時々ぼとぼとと溶けたかき氷が頭に垂れて来るけどそれもまた楽しい。知久さんはギター一本なのにベースだのドラムだのも混じってるように聞こえる。6弦とか5弦で弾く低い音がベースやバスドラみたいな音に聴こえる。「らんちう」では6弦をだるだるに緩めてばちんと弾くのがもう全然ギターの音に聞こえない。ガマガエルの鳴き声と牛のゲップを混ぜたような強烈な音で、あんな音がアコースティック・ギターから出てくるのか、とびっくりする。ギターってこんなにいろんな音を出せるんだな。知久さんはギターが大好きで、休みの日は一日中ギターをいじってるんだろうな、と思う。
海で遊ぶ。娘は人生初の海。パシャパシャと足にかかる波がおかしいらしく、一人でケラケラとウケていた。波打ち際を走ったり、貝殻を拾ったり、サンダルを脱いで裸足であったかい砂の感触を味わったり。
大友良英オーケストラ。「あまちゃん聴くー!」と言って娘は僕の肩車で前の方に聴きに行くが、グギャー! という大きなノイズがあまりに気持ち良く、急に眠くなり、こっくりこっくり舟を漕ぎだす。後ろの方に下がって娘と一緒に芝生に寝転がって聴く。僕と娘が横になっているあいだ、妻は違うステージにハンバート・ハンバートを聴きに行く。
チャットモンチー。初めてライブで聞くけど、こんなに人気のあるバンドだとは知らなかった。大友さんのバンドが終わってから徐々に人が集まりだして僕らが寝転がっていた芝生も気がつけば立ち見の人たちがびっしり。そこらへんに置きっぱなしになっていた椅子やらビニールシートやらは全部撤去されちゃって、見渡す限り立ち見の若者たち。最後に「シャングリラ」を演奏すると周りから嬉しそうな声。やっぱりみんな馴染みのあるチャットモンチーが聴きたいんだな。娘も「シャングリラ」は知っていて、むしろ好きな方で、だからさぞ喜ぶかと思ったけど、疲れていたのか眠かったのか、むすっとした顔で、ステージの方はあまり見ず、客席で音楽を聴く他のお客さんの方ばかりを見ていた。大勢人が集まって音楽を聴く、というのが珍しかったのかもしれない。