古柳観音

 前回帰省したのは三月のお彼岸の時だった。今年の1月からランニングを初めていたから、3月の帰省の時はとにかくたくさん地元の集落を走り回って懐かしい通学路やら小学校の友達の家やらを見て回ろうと考えていて、朝5時におきて走ろうとしたのだが、しかしくるぶしが痛くて3月の帰省の時は思うように走れなかったのが心残りで次こそは脚を鍛えて思うさま生まれ故郷を走り回ろう、と思いこの半年間は毎朝5時に起きて鴨川を走るというトレーニングを続けていたのだが、しばらく前から膝が痛くなってしまい、結局今回もあまり走ることができなかった。だから歩いた。今回歩いたのは原と宮崎。
 原は小学生の時に2回くらいは来たことがあったと思うけど、友達の誰かが住んでいて遊びに来たことがあったのだと思うけど、こんなにいい場所だとは知らなかった。大桁山に向かって緩やかな坂道が続き、その脇に小さい石を丁寧に積んだ段々畑が続いている。車も通らない、人にも会わない、静かで鳥の声がしていかにも日本の田舎の感じで、僕はこんな景色をずっと見たいと思ってたんだった、と思う。わざわざ遠くまで探しにいかなくても僕が見たい景色は僕が生まれた場所にあったんだな。
 地図も見ず、下調べも特にせずに闇雲に歩いたのだったが、あとで調べると、この日に見たのは八幡宮(旧・松尾神社)と古柳観音と丹良宇神社だった、ということがわかる。そのまま大桁山の中腹まで登ってみたのだが、道があっちこっちに別れていて「熊に注意」みたいな看板も出ていて怖くなったので帰って来た。家に帰って来てから小学校の時にもらったわら半紙のプリント「社会科校外学習」を見ると、八幡宮(旧・松尾神社)、古柳観音、丹良宇神社のことが割と詳しく載っている。小学校の僕はこれらの神社のことを勉強したらしいのだが40歳になった僕の頭には何一つ残っていない。
古柳観音なんて何も知らずにただ見ただけでは寂れたお堂というかそれほど派手じゃない地味めな建物がどーんと一つ建ってるだけで、特に見るものもない感じで、割とあっさり通り過ぎてしまったのだけど、帰ってから「社会科校外学習」を読んだらけっこう歴史が古い観音様だった。
 古柳観音の観音さまは聖徳太子が彫ったものだという。奈良の三十三間堂の柳の木で観音さまの像を刻んでそれを諸国に配ったというのだけどその大きさが4メートル80センチもあったというのだからすごい。一つ掘るだけでも相当時間がかかるだろうに、諸国に配ったというのは一体何体くらい彫ったのか。聖徳太子って政治をするのに忙しそうだから本人が彫ったのじゃないのかもしれない、専門家に頼んで彫ってもらったのかもしれない。とにかくそれを彫って配ったのが天平7年というから、西暦だと734年になるのか。そうすると今から1284年も前だ。古柳観音は千年以上も前からこの場所にあって原の人たちに大事にされて来たのか、と思う。原の人たちは千年前も今と同じように段々畑を耕していたのだろうか。原には建物がまばらにしか建っていないしコンクリートやらアスファルトがほとんどなくて地面がむき出しになっている。ここの風景は千年前とあまり変わっていないんじゃないだろうか。
 そろそろ時間なんで、続きはまた今度書く。