浅間山古墳に行ってきた

 こないだの連休に一日休みをつけたして三泊四日で実家に帰って来た。妻と娘も一緒。高崎の駅で新幹線を降りるとああ、帰って来たなあ、と思うのは空気の温度なのか湿度なのか匂いなのか音なのか、それとも気のせいなのか。両親が元気そうなのでとりあえず一安心。

 今回の帰省のついでにぜひ見ておきたいと思っていたのが浅間山古墳で、ここに父親の運転する車で連れて行ってもらう。ついひと月ほど前までは群馬にこんな古墳があるなんてちっとも知らなかった。浅間山古墳のことを知ったのは『思考としてのランドスケープ 地上学への誘い』という本に載っていたから。
群馬県高崎市の中心部から南東へ3キロメートルほど離れた郊外に、倉賀野古墳群と呼ばれている複数の前方後円墳や円墳が残存している場所がある。古墳群は、利根川利根川の支流である烏川に挟まれた高崎台地の南端にあり、台地上の小河川のひとつ粕沢川に沿うように点在している。かつては小規模なものも含めて300以上の古墳が群をなしていたという説もあるが、現在、現地で確認できるのは「浅間山(せんげんやま)古墳」と「大鶴巻古墳」「小鶴巻古墳」など数個である。古墳群の中で最大の浅間山古墳は、墳丘の長さが171メートル、高さは14メートルであり、関東地方で第3位の規模であるという。4世紀末から5世紀初頭頃の築造と推定される、貴重な文化財である。
『思考としてのランドスケープ 地上学への誘い』

 まず最初は大鶴巻古墳の周りをぐるりと車で回ったのだけど、モクモクと木が生えた古墳が民家の向こうに見えたときの興奮といったら。こんな普通の住宅街にあんなに大きな古墳がある! 僕も妻も両親もわあ、すごい! とみんな声が大きくなる。大鶴巻古墳はこの後で見た浅間山古墳に比べるとスッキリしている印象。古墳の周りは田んぼになっていて、前方にも後円にも一面に薄い緑色の短い草が生えている。前方後円墳の後ろの円のところにはニョキニョキと木が生えていて、草の薄緑と木の濃い緑が綺麗で、気持ちのいい丘、といった感じ。ここは車を止められる場所が見当たらなかったので、車の中から見ただけ。
 次に一度中山道に出てダイハツの裏にある浅間山古墳を見に行く。中山道からみるとダイハツの向こうにボサボサと木が生えていて、古墳だと知らなければただの山というか林というか、とにかくただ木が生えてるだけみたいに見える。ダイハツ裏の歯医者さんだったか病院だったかの駐車場に車を止めて古墳まで歩いて行って見たのだが、この古墳は頭から尻尾まで全部あますところなく農地になっていた。作物やら木やらが所狭しとぎゅうぎゅうに生えている、というのがすごい。興奮する。昔の人間が作ったお墓を、後に生まれた人間が別の目的に使っている、ということに興奮するのか、それとも野放図に伸びた雑木林の力強さだとか畑のあちこちにワサワサと生えてる草の勢いだとかに興奮するのか。
 古墳の周りの濠は田んぼに使われていて、これがぐるりと古墳を取り巻いている。田んぼの中にもっこりと盛り上がっている古墳は前方のところは野菜の畑になっていたり低い栗の木が植えられていたりして、これでもかというくらいいろんな農作物がひしめいている。で、後ろの円のところには大鶴巻古墳と同じくやっぱり広葉樹が植えられているんだけど、これは『思考としてのランドスケープ』を読むと薪を取るために植えておいた木が大きく育ちすぎたものだという。『思考としてのランドスケープ』ではこの浅間山古墳は、「周濠を有する前方後円墳の形状が、丘陵と台地と低湿地という地形に読み替えられ、低地は水田、台地は段畑その上の丘陵は裏山の新炭林という、伝統的な農村の土地利用を凝縮したような、地形に適合した農地利用」ということになり、著者の石川初さんはこれを「里山古墳」と呼んでいる。

 これが浅間山古墳の写真。前方後円墳を前の四角いところの角から見たところ。これがきれいに整備されてツルツルの古墳になっていたらつまらないのだろうな、と思う。こうやって農地に読み替えられて今の人の生活に利用されているというのがすごくいい。千何百年もの間、この古墳はここにずっとあり続けていて、こうやって田んぼや畑に利用されて来たんだなあ、という時間の厚みを感じる。