昨日の続き

 4メートル80センチと言ったら結構な高さだ、今まわりにあるものと比べると例えば電信柱くらいあるのだろうか。それだけの観音様が収納されていたんだから建物だってだいぶ天井が高かったはずで五重の塔とまではいかなくてもそれに近いくらいの立派なやつが古柳観音のあの場所に当時は建っていたのか。
 それにしても柳の木というものは4メートル80センチの観音が彫れるほど大きく育つものなのか。柳の木は河原とかで枝がしなしなっとたれて風に揺れてるのなんかを想像するというか見たことがあるはずだけど、昔はもっとずっと巨大な柳の木がそこらへんに生えていたということか、今も行くところに行けば大きな柳の木が見られるのか。屋久島に行った時に聞いた話では、関東だか関西だかも人間が森を開く前は屋久島みたいな森だった。だとすると柳の木だって巨大なやつがわさわさ生えていた。
 「社会科校外学習」の古柳観音の項にはたしかに天平7年と書いてある。天平7年に聖徳太子が観音の像を刻んだと書いてあるが、元号大化の改新から始まった、一番はじめの元号は大化だった、と学校で習ったような気がする。聖徳太子大化の改新よりも前に生きたはずだから天平7年というのはおかしい。大化の改新蘇我氏蒸し殺す、で645年、聖徳太子ウィキペディアを見ると622年に死んでいる。「社会科校外学習」を書いた誰かが勘違いしていた、ということなのか。
 大桁山は関東平野を一望できる美しい山だったので、という理由で古柳観音はこの場所に祭られたのだがしばらくのちに火事になりお堂も観音も一緒に焼けてしまった。村人が泣きながらお堂を建て直していた時にそこを通りかかったのが弘法大師だった、弘法大師空海のことだ、空海は仏教を広めるために日本中を歩き回っていたということだがそれは本当のことなのか? 仏教を学ぶために中国に渡ったという話は聞いたことがあるが、そのあとで日本中を歩き回ったのか? 
 空海が生きたのは西暦800年前後だから、4メートル80センチの観音様は200年間ほど原(いや、あそこは原じゃなくて山口になるのか)のあの場所に立っていた。