前回のつづき

今日、僕がバイトをしている魚屋さんの前をダンサーの松本さんと夏目さんが通って、「あれ、ここで働いてるんやね!」という感じでちょっと話をした。こないだの水曜日に夏目さんのダンスがあったんだけど、僕はなんだかんだで行きそびれてしまった。松本さんによるとダンスはすげえ良かったのだそうだ。ああ! 何をやっていたんだ俺は。観に行くべきだったのに!

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原始人と現代人とでは、人間の内面というものは違っているはずだと思う。原始人は現代人よりももっとオオザッパな内面しか持っていなかったのじゃないかと想像する。現代人のほうが細やかに分化した内面を持っているに違いないと思うわけだけど、じゃあ、人間の内面というものはどうやって進化して来たのか。
やっぱし、フィクションが人間の内面を今あるようなものに作り上げて来たのじゃないかしら。人間はいろんなフィクションを何万年もの時間の中で作り出して来た。そういったフィクションをつくる中で、人間は、人間の内面をなんとか言語化しようといろいろがんばって、そうやって少しずつ人間の内面というものが今あるものになったんだろうと思う。
人はその人生の中で、膨大な量のフィクションに触れる。「ちびくろ・さんぼ」とか「桃太郎」とかから始まって、テレビで「ドラえもん」を見たり、大人になったら「男はつらいよ」とか見たり、ドストエフスキーなんて読んでみたりして、毎日いろんなフィクションに触れる。そうやっていろんなフィクションを取り込みながら生きるということが、人間の内面にとってはうんと必要なことなのだろうと思う。
そういういろんなフィクションにいっさい触れずに生きて来たカスパー・ハウザーみたいな人は、現代人のような内面を持つことができず、原始人みたいな内面で生きてるんじゃないかしら。