今年の抱負とか


ぼやぼやしているうちにお正月ももう終わってしまった。
なんだかこのごろ、情報をむやみに取り入れるということが、おもしろくなくなってきた。
情報とは、大企業とか、権力者とか、そういう僕の日常生活とは直接関係のないはずの誰かが、我々に一方的にあたえるエサなんじゃないかと、そんなことを思う。
このテレビ番組がおもしろいですよ、このお店の料理がうまいですよ、この映画は泣けますよ、といった情報たちは、「お前らはこれでも見ておけ」とか「おまえらはこれでも食っておけ」というエサなのではないか。
テレビとかネットとかで、無料で、苦労も努力もなく僕の脳に入って来る情報たちは、僕以外の誰かにとって都合のいい情報なんじゃないか。そんなだれかの都合に振り回されて「なるほどおもしろいや」などとつぶやきながら、上からおりて来る情報をあたえられるままとりこんで、お金を使い、時間を使っていたのでは、僕は自分の人生を生きているとは言えないのじゃないか。
そんなことを考えていると、いろんなことが無邪気に楽しめないような気分になる。
そんな日々の生活の中で、今年の正月は三歳前後の子供と遊ぶ機会が二度ほどあって、そうすると子供と走り回ることだけはなんの保留もなく楽しめるようだ。これだけ無条件に笑うという経験はあまり普段の生活の中にはないようだ。
子供はいいぜ、とはいいつつ、その子供たちの生活にも情報はどんどん流れ込んで来ていて、iPadでゲームをする二歳の子供をみると、それでいいのかしらと心配になりもする。
情報化社会です、生き残るためには情報を、という情報自体が、企業や権力が我々を操作しやすくするための嘘なのではないか。
テレビやネットを通して、外から僕の生活の中にやって来る情報に飛びつくのではなくて、むしろ情報をせき止めて、身の回りにいる人や物たちとおとなしく暮らして行きたい、などと思う。
あるいは、古典をじっくりと反すうして暮らしていたい。新しい本も、新しい映画も、新しい演劇も、新しい音楽も、もういらないのではないか。
YouTube」でいろんな音楽が聴ける! とかいうけど、そんなに聴いてどうすんの? と思ったりもする。もう、家にあるジミヘンのCDを何回も聴き返して行きていればそれで充分なんじゃないかと、そんなことを思う。
新しいことはいいことだ、新しくなければ価値がない、とつねに誰かに言われ続けている気がする。テレビやネットで新しいものがどんどん紹介されているけれど、その裏にあるメッセージはつまり、新しくなければ価値がない、というメッセージだ。でも、それって本当なのかしら。誰がそんなことを決めたのか。やっぱり企業や権力がそんな嘘を流しているのじゃないかしら。
だからもう、新しい物は何もいらない、情報は何もいらない、そんな老後のような気分で最近はいるのだけれども、この老後のような気分は後ろめたいような気分でもある。そんなのネガティブな後ろ向きな生き方だよ、と誰かに言われているような気分になる。しかし、それをネガティブだととらえる考え方自体が誰かの作った嘘なのだろうと、そう思いながら生きる、ということはひとつの戦いではあると思う。いま、大多数になっている考え方、に反抗する戦い。
しかしそんな風に生きていて楽しいのか? テレビのバラエティーを見て笑っているほうが楽しいのではないのか?
いや、楽しいか楽しくない、で人生を考える考え方がそもそも間違っているのではないか。
一人でもんもんと考えていても良くわからない。
だからことしは、もっと思想書とか哲学の本とかを読もう。それらの本が情報や、社会や、生き方を考えることの手助けになってくれるだろうと思う。