ジオラマ、プラモ、お茶碗

 最近どうも遠出をするのがおっくうで、休日どこかに出かけようと思っても、昼過ぎまで家の中でごろごろと過ごし、さてそろそろ出かけようぜと外に出てみればもう太陽が沈もうとしている、空が茜色の夕焼けだ、これではあまり遠くまで行けないではないかと、ついつい近場の本屋などに夫婦で出かけてお茶を濁す、という休日の過ごし方が少しずつ定着して来ていたのだけれども、このままではいけない、もっといろんな場所に行っていろんなものを見なければ、ということになり、それでこないだの日曜日は妻と二人で早起きをしてみんぱくに行った。
 しかし実を言うと早起きにはそれほど成功したとはいいがたく、十時にはみんぱくに着いていよう、という勢いで前日の夜はふとんに入ったのだけれども、結局は家を出たのが十時とか十時半とかそんな時間で、途中でパン屋さんに寄りお昼ごはん用のパンを買ったりなどしつつ。
 こんかいのみんぱくで我々ががぜん興味を持ったのはジオラマだった。日本の古いでかい農家などがジオラマになっている。それを見ていると小さくなった自分がそのジオラマの中で生活しているような気持ちが味わえる。そのジオラマの空間に身を置いて、空間を体験しているような気持ちが味わえる。そこの縁側に腰をおろしてお茶でも飲んでいるような。
 そう言えば五年前に死んだ僕の祖父は、一時期日本のお城のプラモデルをつくることを趣味としていたけれど、あれはひょっとして、姫路城なら姫路城を作ることにより、自分が姫路城にいてその空間を味わっているという、そういう体験をするということが目的だったのかもしれない。
 子どもの頃、戦艦大和が海の底に沈んでいるのが見つかったとか、写真に撮られたとか、そんなニュースが新聞に乗り、テレビで放送され、それを見た僕は強烈に戦艦大和に興味を持ち、祖父にねだってそのプラモデルを買ってもらった。小学校三年くらいだったろうか。それでプラモを広げてみると細かい砲台がいくつもいくつもあって、それをひとつずつくっつけて行くという作業が僕には辛抱できなくて、わりと最初のうちに投げ出してしまった。あれも、本当に好きな人がつくるならば、砲台をひとつずつくっつけて行く作業を通して、自分が大和に乗っているような、小さくなった自分がそのひとつひとつの砲台に触れて歩いているような、そんな至福の時間を過ごすことができるのかもしれない。
 民芸館にも行ったのだけれど、独身のときには興味がなかったお茶碗なんかを「あれもいい色、これもいいガラ」などと思いながら見られるようになったのは、結婚後の僕が妻がお茶碗を見る目というものを獲得したということなのか。熱心にお茶碗を見る人の横にいると、その熱心さがこちらにも移って来て、なんとなく一緒になってそれを見てしまう、ということか。
 などと考えてみるが、いくら妻が好きなものでも僕には今ひとつピンと来ないもの、というのもあるので(たとえばミナ・ペルホネンとか)、僕がお茶碗を見られるようになったということは、もともと僕の中にお茶碗に興味を引かれがちな要素があったということか。それとも妻が好きな服なども一緒になって熱心に見ていればそのうち僕の中に興味が芽生えるのだろうか。いや、しかし女子の服に今更興味を持ってどうするのか、という問題もある。そもそも夫婦で一緒の趣味でなければダメだ、などということはぜんぜんないのだし。
 あれ、おれは何の話をしていたのだったか。