夢の満州の空間


前回のブログを書いたら「おじいちゃんなくなられたのですか?」という問い合わせが殺到したんだけども、おじいちゃんは死んでません。いや、死んでいないというのは嘘か。本当は死んでいるのだけれども、おじいちゃんはもう五年間ほどずっと死んだままでいる。おじいちゃんがなくなった年はたしか小島信夫がなくなったのと同じ年で、それならそれは2006年だった。あれは11月30日だったろうか? 愛子さんの誕生日の前日だったように覚えているから、そうすると昨日じゃないか、30日は。そういうわけでおじいちゃんのことをおもいだしたりしていたら、おじいちゃんが死ぬ間際に夢の中で体験していた満州のことをふと書いてみたくなってかいてみたのだった。おじいちゃんは満州で生まれたとかじゃなくて、国境警備か何かの仕事で、昭和十年代の後半に満州に行っていたのだった。

最近空間ということをよく考えていて、例えば小説を読んでおもしろいのは、文字というインクの染みを見ることによってそれを見る人の頭の中に空間が立ち上がるという、そういう二次元のものが三次元に立ち上がるおもしろさなんじゃないかと、そんなことを仕事中の暇なときに考えていたりしている。子どものときに読んでおもしろかった本の内容で今でも覚えているのは、ストーリーなんかよりも空間であるような気がする。たとえば『ガリバー旅行記』を僕が何度も繰り返して読んだのは、小人の国や巨人の国でのガリバーの冒険にハラハラドキドキしたから、ではなくて、小人の国や巨人の国という空間を思い描き、頭の中でそれを立体化し、そこに自分が身を置いているような、そんなことを感じるのがおもしろかったからなんじゃないかしら。
江戸川乱歩の『怪人二十面相』だって、小林少年の冒険を楽しんでいたように思い込んでしまいがちだけども、東京を歩き回る小林少年のからだを通して、戦前の東京という空間を知覚するという感覚がおもしろかったんじゃないか。そうすると、『怪人二十面相』はあれは探偵小説だと考えるのではなく、戦前の東京を体験するための装置、と考えることもできるのではないか。郊外の山の中の洞窟とかに小林くんや少年探偵団の諸君が迷い込むところとか好きだったな。洞窟、屋根裏、そんな狭くて暗い空間が書かれている話がわりと好きだ、というのは狭い場所に閉じこもったときに感じる安心感みたいなものを本を読んでいるだけでも感じることができるからか。
いま映画になりつつある「ナルニア」のシリーズの中で僕が一番好きだったのは『魔術師のおい』で、これはやっぱり戦前のロンドンとか屋根裏とか林の中に小さな池がいっぱいある空間とか、そんな空間が好きだったからかもしれない。
ファミコンだって、ひょっとしたら空間を疑似体験するための装置だ、あれは。アイテムをとる、クリアする、姫を助ける、魔王を殺す、そんなことが目的だと思い込まされているけれども(しかしそれを思い込まそうとするのは誰か?)、そんなものは目的ではなく、本当の目的は「スーパーマリオ」なり「ドラクエ」なりのゲームの中の空間を何度も歩き回りあちこち行って、その空間に身を置いているような感覚を味わうことなんじゃないか。クソゲーというものがあるけれども、クソゲーはこの空間の作りが雑だったり、下手だったり、操作性が悪くて空間をきもちよく体験できなかったり、そんなゲームがクソゲーなんじゃないか。
空間はからだによって体験され、知覚される。現実でもそれはそうだけれども、小説やらゲームでもそれは同じで、人間の出て来ない、空間だけの小説、空間だけのゲームというのはかなりあり得ないんじゃないかと思う(あでも「テトリス」なんかはそうか。あれは二次元のものを二次元として楽しむゲームだから、からだが介在してなくても無問題なのかしら?)。というのは、その空間に働きかける身体がないと、空間は人間に知覚されないからで、たとえばマリオの出て来ない「スーパーマリオ」っていうのは可能か? クリボーやらはてなブロックやらが延々と通り過ぎて行くだけというゲームか、それは。よしんばそんなゲームがあったとして、それで遊ぶ「私」という身体がなければ、そのゲーム空間は誰にも体験されないんだから、それはどういうことになるのか。
身体というのは見たり、聴いたり、肌で感じたり、匂いとか、気配とか、そんなあれやこれやで空間を常に知覚し続けている。身体は、いわば空間認識装置だ。死が怖いというのは、この空間を感じるための装置がなくなっちゃうからかもしれない。たとえばレコードの針だ、身体は。いくら膨大なレコードのコレクションがあっても、針がなければそのレコードは聴くことができない。死ぬというのは、この針がなくなっちゃうことなんじゃないか。私が死んだあとも、レコードはずっとあり続けるだろう。しかし私のプレーヤーには針がないんだから、もう私はこの膨大なレコードを聴くことができない。僕のおじいちゃんのプレーヤーにはもう針がない。
景色、風景といったときに、それを思い描こうとすると、風呂屋の富士山というか、歌舞伎の背景の松というか、二次元的な、平面を僕は思い浮かべる。この中に誰か人が入って(たとえばマリオが、ドラクエの勇者が、)この風景の中で運動をする、歩いたり、しゃべったり、たべたり、寝たり、するときに、風景は空間として立体的に立ち上がる。
人が複数になればそこに関係が生まれて、この関係も空間だ。人と人がコミュニケーションをとれば、それはその空間の表現になる。その空間でしかおこらないコミュニケーションというものがある。たとえば、えーと、クリスマスのイルミネーションが光ってる空間でしか起こらない恋人同士の会話とか。陳腐な例だけど。
同じ場所でもそこにいる人が違えばそれは違う空間になる。同じ部屋でも一人でいるときと、家族といるときとでは、違う。
小説はストーリーを読むものだ、あるいは人の感情の起伏を読むものだ、と思い込まされているけれども、ストーリーやら感情やらは小説内の空間を体験するための手段なのではないか。忍者の小説を読むとき、一番の目的は忍者屋敷の込み入った空間を体験することで、読者がこの忍者空間を体験するためには、ここで運動をして空間を体験する主人公のからだが必要があり、ストーリーなんかは主人公のからだを動かすための手段でしかないのではないか。
祖父が死に際に夢に見ていたのは、エピソードや人やフクロウであるけれども、それらは満州という空間にすべて含まれていた。祖父が頭の中に立ち上げていたのは(祖父が死に際に身を置いていたのは)満州という空間だった。
夢とは、ある空間に身を置くということなのじゃないか。夢を見た、というときに話題になるのはあの人に会ったとか、変な展開になったとかだけど、実は夢で注目すべきなのは夢に出て来た空間なのじゃないか。空間をこそ人は夢に見たい、という仮説。いや、空間が夢に見られたがっている、ということもあるのか?

愛子さん、お誕生日おめでとうございます。