「ギブミーベジタブル」というおもしろそうな催しが左京区の「甘夏ハウス」という町家であるらしいよ、という情報を妻がツイッターから見つけてきて、なんでも入場料の変わりに野菜を持っていくらしいよ、ライブや落語があるらしいよ、古本も売るらしいよ、とそんな楽しげなことをiPhoneをいじくる妻の横で聞いていると、これは是が非でも出かけていかねばなるまいと、そう思わずにはいられない。だいたい僕らは音楽やら古本やらに目がないことであるし、野菜だってわりと好きな方だし、なんといっても僕らの大好きな「あいのてさん」の野村さんが出演することだし、というわけで、前の日に八百屋さんや近所の農家で買っておいた芋や白菜をかついでバスに乗り(ああ、白菜のずっしりとした重みのなんと心地よいことか! この中には水や栄養やミネラルがたっぷしつまっている!)、左京区の甘夏ハウスに出かけていったのは寒い曇り空の日で、ホットカーペットを敷いた甘夏ハウスではふすまがすべてとりはらわれ、ぎっしり座る大人に混じって子供たちがパタパタと歩きまわり、玄関入ってすぐのちゃぶ台では、ジーパンをはいてヒゲをはやしたプー太郎風のおじさんがもぐもぐ野菜を食べていた。ああ、こんな風に一見ちゃんとしてなさそうな空気を醸す大人たちがゆるゆると時間を過ごせる場所というのはいいものだなあ。そこにいれば自分のちゃんとしてなささがちゃんと認められるような気がして来る。
 台所にはカラフルな服を着た女性が3人くらいいて、次から次へと野菜を料理し続けている。あの人たちがこのイベントの主催者なのかしらね、料理の好きな人が食材の提供を山盛り受けて好きなだけ料理をつくれるっていうのは、なんと幸せそうなことなのだろうねと、妻からのツイッター情報以上のことを知らない僕は、ジョッキでビールを飲みつつ大量の野菜を料理して行くその人たちの楽しさを想像して、自分がその人たちになって快楽を感じているみたいに身悶えしかける。
 子供たちはゲームボーイを両手で持ってうろうろと歩き回り、落語が始まると2階に避難してそこでゲームボーイをするその音がそこはかとなく落語家の頭上の天井の向こうから響き、それが落語のBGMになりそうだけれどいまいち落語とマッチしないが、そのマッチしなさ加減が逆にこのゆるい場の空気を作り出すことに寄与しているのではあるまいかと考えてみるふりをしてみたりしなかったり。うなぎの話をする落語家の横には野菜が山盛り置かれていた。
 この日僕は夕方から仕事に行くことになっていて、だから甘夏ハウスでゆっくり時間をすごすことができず、せめて妻にはこれから始まるだろう野村さんのライブの演奏なんかも楽しんでいってもらいたいと思ったが、しかし妻はプー太郎風の人たちの中で一人きりで生き残っていく自信もなく、それで二人して早々に甘夏ハウスを辞し、近所にある「コトバヨネット」という最近できた雑貨や古本を売る店をひやかし、そこで店主とお客さんが熱く語っている話をさも聞いてませんよというふうな顔をして、しかし耳に入って来ちゃうその印象深い話をしっかり記憶してバスに乗った。

 京都文化博物館シャガールの展覧会ももうすぐ終わりになる。終わってしまう前に見ておきたい。それで妻と二人で出かけて行った。三連休の真ん中の土曜日は町も博物館もぎっしり混んでいて、シャガールの絵の前の行列はおしくらまんじゅうをしてばかりいてなかなか前にすすまない。僕と妻は混んでいるところを飛ばして、展示場を逆回りで回って絵を見ていった。シャガールのことを良く知らなかった僕は、ああ、シャガールって変な絵を描いていたのだなとなんだかひどく元気づけられるようだ。顔が緑色だ。頭が逆さまについている。牛が空に浮かんでいる。完成してるんだか未完成なんだかわかんない。人が裸だ。動物がテーブルで酒を飲んでいる。子供の描く絵みたいだなと思うと同時に、僕は自分が子供の頃に「こうあるべきだ」「こうでなければいけない」そんなことを結構考えながら絵を描いていたような気がしてきて、小学生の頃の自分の小ささが悔やまれる。シャガールを見ていたら、ああ、芸術なんて何でもやりたいようにやっちゃえばいいんだよなと、気分が解放されるようだ。
 演劇だって芸術なんだから、シャガールの絵みたいになんだってやっちゃっていいはずなのに、どうも僕は「こうあるべきだ」みたいなことを考えがちで、今ひとつふっきれない自分を顧みるようだ。なんでもっとぶっとんだことをやろうとしないんか。何を恐れているんか。ああ、ぶっとんだ戯曲が書きたい。

 通訳ガイドという仕事があるらしいよ、ということを最近ネットで知り、このごろ英語を勉強している僕はついつい将来の目標を通訳ガイド(兼、劇作家)にさだめがちなのだけれども、いろいろ調べてみたら通訳ガイドで食べて行けてる人はほんとに一握りだけで、ほとんどの通訳ガイドは主婦が余暇にやってる程度らしい。通訳ガイドになるぞ! と決心した翌々日にはそんなことまでネットの情報で知ってしまい、せっかく通訳ガイドをめざすために日本史の本まで買ったのに、すでに僕はくじけぎみであることだ。
 でも、外国から来た人をガイドしつつ京都のいろんなお寺を回ったりしたらおもしろそうだな、とか思いませんか? 京都にあるのはお寺ばかりではない。三条通りのレンガの建物の来歴なんかを「これはあのトーキョー・ステンションをつくったタツノ・キンゴがつくった建物だ。昔はバンクに使われていたんだ」とか、そんなことを英語でしゃべくりながら歩き回ってみたりして、日本の音楽のCDが欲しいというお客さんがいれば、アートコンプレックスの地下にあるノイズとか音響系とかのCDばかり売ってるレコード屋さんに案内する。日本のカフェに行ってみたいというお客さんがいれば、下鴨神社に案内した後でユーゲとかに行って水餃子かなんかを食べさせてあげる。そんなふうに外国の人と一緒になって京都を観光しつつ生きて行けたら楽しいだろうなとか、ほんとそんな想像は何も分かってない甘い考えなんだろうけど、でもそれを想像してみたりしてると、そういえば僕の頭の中にある京都の地理とか歴史とかは穴ぼこだらけだなと思い当たり、もっと京都のことを知るための勉強をするぞ、今日から俺は。と決心して今から市立図書館に京都の本を借りに行くことにする。