朝から雨が降っている。7時過ぎに目を覚ますが、家の中があまりに暗いのでつい二度寝をしてしまう。妻がひとり、カップケーキとコーヒーで朝食をすませ、「行って来ます」と赤いチェックの傘をさして出かけて行くのを、あわててふとんから起き上がり、パジャマ姿で玄関に立ち見おくる。一週間の始まりの朝を寝とぼけたままで開始してしまったことにたいする後ろめたさを感じる。

 週末には、テレビでスケートの試合が放映されていて、僕は妻とふたり炬燵にあたり、図書館で借りて来た京都案内の本をチラチラと眺めながら、横目でスケートの試合を見ていた。スケートの刃に削られた氷の白い小さな破片が、転んだ選手のからだや髪の毛に一瞬くっついて、それがすぐにぽろぽろと落ちたり、選手がくるくると回るときなどに飛び散ったりして、その白い破片をみていると、小学校のスケート場で転んでばかりいた僕のからだにも、あの氷がくっついていたのを思い出す。
 冬になると、小学校の近くにスケート場がつくられ、小学生の僕たちは体育の時間にそこでスケートをする。テレビに映っているようなスケートリンクではない。野原に水をまいて地面を凍らせただけのスケート場だ。氷は均一ではなく、むしろでこぼこだらけで、刈り取られた草の茎が氷の間から頭を出していたりする。隣が竹やぶなものだから、竹の根っこが氷から飛び出していたりもして、その上を滑る子供は絶対にころぶ。
 11月か12月になると、夏の間にぼさぼさにはえた雑草を小学生の両親たちが刈りに行く。夜、気温が氷点下に下がると、両親たちは交代でスケート場に出かけて行き、バケツにくんだ水を野原中にまいていく。それを何日も続けるうちに、スケート場に少しずつ氷ができて行く。
 両親たちは子どもたちにスケート靴を買い与える。去年はいた靴が今年もまだはければいいけれど、子供の足は毎年大きく成長していくのだから、子供が小学校に6年通う間に親たちは何度かスケート靴を買い替えてやらなければならない。冬の間、せいぜい2ヶ月くらい、週に2回か3回くらいはくだけの靴にそれほどお金をかけるのももったいない話だ。それで親たちは子供の足が大きくなってもはけるようにと、なるべく大きめのサイズの靴を選んで、子供に買い与えることになる。子供たちはなるべく厚い靴下をはき、足の指先にティッシュペーパーをつめたそのスケート靴ででこぼこの氷の上を滑る。
 僕が両親に買ってもらったスケート靴はスピードスケート用の靴で、小学校一年のときは、この靴の紐を結ぶのにひどく苦労した。手袋をしていては紐がうまく持てない。手袋をとると今度は指がかじかんで、思うように紐をあつかえない。なんとか紐を穴に通し、見よう見まねで蝶々結びをこしらえたら、もう靴を脱ぐ時間になっていたりする。
 時間内に靴をはけたとしても、すぐに滑れるわけじゃない。まず、氷の上に立つのが大変だった。あの細い刃で、つるつると滑る氷の上にどうやって立つことができるのか。たぶん、自転車みたいに、前に進んでいればバランスがとれてうまく立てるのかもしれないけど、しかし狭いスケート場に40人以上も子供たちが乗っているのだから、ちょっと滑ればすぐ友達のだれかにぶつかる。おっとっとと尻餅をついて、ごめんごめんと立ち上がり、それからまたおずおずと滑り始め、また誰かと衝突する。なんとか誰にもぶつからずに、順調にすべれているなと、そう思った矢先に竹の根っこに刃を引っかけてころぶ。そんなことを繰り返しているとすぐに体育の時間は終わってしまう。

 ツイッターを始めてみたが、どのように使ったものか。
 いつだったか、新聞をとっている友達が、新聞の良い所は自分が興味を持っていない情報も目に入って来ることだ、と言っていたのを思い出す。政治や経済などに僕は興味を持っていないのだから(法科大学院の図書室で働いているというのに!)、インターネットに接続しても、まず政治や経済のニュースなんて見ようとしない。新聞をとっていれば、僕が目をそらしている世の中のニュースが、大きなゴシック体で、そしてしばしば写真つきで、僕の目に入って来ることだろう。しかし新聞をとる決心がつかないまま何年も過ごしてしまっている僕は、それならばツイッターでふだん自分があまり興味を持っていない情報を発信してくれる人をフォローし、つぶやきをざっとブラウジングする際にそれとなく興味のない情報を取り込めるようにしたらいいのかもしれない。