音楽のこととか時間のこととか

きのう、日が暮れてからソーレ・カフェにオムトンのライブを聴きに行った。
オムトンの演奏を聴きながら、音楽というのはからだ全部で演奏するものなんだな、ということを思った。マリンバを弾くワカメールやのんちゃんはリズムに合わせてやわらかく足踏みをして、肩のあがり方なんかも一音いちおん毎回違って、そういうからだ全部の動きが音になってでてくるんだろうな、と思った。身長とか体重とかも音に影響してくるんかもしんない。どんな衣装を着て演奏するかでも音が違ってくるんかもしんない。もしかしたら、お昼ご飯に何丼を食べたかでも音が変わって来たりするのかもしれないな。それはあんまり微妙すぎてほとんどわかんないくらいの変わりようなのだとは思うけど。
マリンバの音は、バチが鍵盤に当たった瞬間に生まれて、生まれた瞬間にすぐに消えてしまう。同じ鍵盤をもう一度たたけば、また同じ高さの音が出るけれども、それは前の音とまったく同じというわけではなくて、一度生まれた音は一度きりで消えてしまう。次々に生まれて次々に消えて行く音を聞きながら、時間というものは絶えず流れ続けているものなのだな、ということをふと思った。
オムトンの人たちとはいつかまた近い将来に会えるだろうけれども、でも、その将来の僕や将来のオムトンは今日とまったく同じというわけではなくて、ちょっとだけ髪の毛が伸びていたりするだろうし、体調も違うだろうし、お腹に入っている食べ物も違うだろうし、話す話題も違うだろうし、会う場所も違うだろうし、だから今こうやって京都でオムトンのライブを聴いているのは一回こっきりの体験なのだ、ということを思ったりもした。でも、過去に何回かオムトンの人たちと会った印象や記憶や手応えなどは僕のなかに残っていて、それは時間がたってもどこかに行ってしまうものではなくて、僕が死ぬまで僕の中のどこかに残り続けるものなのだろうと思う。そしてそういった記憶や印象や手応えなどは、これから僕がオムトンに会うたびに少しずつ変化しながら、少しずつ量を増やして行くのだろうと思う。
身近にいる友達や恋人も同じことで、たとえ毎日会っていても、その人は昨日とまったく同じ人というわけではなくて、ちょっとだけ髪が伸びていたり、ちょっとだけ小じわが増えていたり、ちょっとだけ新しい知識を仕入れていたり、ちょっとだけくたびれていたり、ちょっとだけほがらかだったり、ちょっとだけお化粧が濃かったり、ちょっとずつちょっとずつ、絶えず変わり続けている。変わって行くのだけれども、それでもやっぱり同じ人であり続ける。そして、僕が持っているその人についての感想や感情や感覚やなんやかやも、かっちりと固まることなく、微妙に変化を続けながら、ゆらゆらとずっと続いて行くものなのだな。
オムトンの曲は同じリフレインをずっと繰りかえしているんだけど、でもそのリフレインはずっと同じではなくて、今鳴っているリフレインはさっきまで鳴っていたリフレインと少し違う。そうやって音楽は少しずつ響きを変えながらずっと続いて行って、曲の終わりに近づくにしたがってマリンバの音がかすかになって行き、ついに最後のひとうちが打たれると、その次の瞬間にはもうマリンバの音は聴こえず、音楽が終わる。音が消えてしまうとそのあとは無になるのかというと、無にはならないで、その音楽が始まる前とその音楽が終わったあととでは、その場の空気や、隣の席に座っている人との関係や、僕が頭の中にこっそり持っていることとかも少し変わっているわけで、そうやって音楽はいろんなものに影響を与え、そして、音楽がその中で響く時間というものは、いろんなものごとを変化させながらずっと流れて行くものなのだなあ、というようなことを思った。


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オムトンとは関係ないのですが、DearBananaさんのライブの映像。

オムトンのライブに行きそびれた人はDearBananaさんの歌を聴いて心をなぐさめましょう。