超合金のマクロスはどこに行ってしまったのか?

 仕事の帰り道、閉店したスーパーの入り口の暗いところにたたずんで携帯電話でしゃべる男の人がいて、この人はちょっと関西のアクセントと違うようなしゃべり方をしているので、福井の人かもしれないとか思ったのだけれども、僕は福井の人がどんなしゃべり方をするのか知らないので、福井の人ではなかったのかもしれない。
 「ちゃうちゃう、ぜんぜんちゃうで、ビーチバーレは砂の上でするけど、ぜんぜんだって、水の中で、水に浸かってするんだ、水球は」
 そんな話をしていた。

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 Tさんの伝記を書くというふうに考えるからなんだかTさんの全部の人生を年表みたいに書かなきゃいけないような気がしてしまっていたけど、別に僕が興味をひかれたところだけうんと拡大して書いてもいいんだな、ということを仕事中に考えて、それなら『忘れられた日本人』の「土佐源氏」みたいなふうに書いたらいいかも、と思いつき、思いついたついでに図書館で『宮本常一の写真に読む失われた昭和』を借りた。図書館で働いているとこういうときに便利だな。この写真集を見ているとおっぱいがつきたての餅みたいににゅーっと垂れ下がったおばあちゃんの写真があって、そういえば子どもの頃はにゅーっと垂れ下がったおばあちゃんのおっぱいをしょっちゅう見ていたような気がする、とかそんなことを思い出した。この僕の記憶の中のおっぱいは僕のおばあちゃんのおっぱいなのだろうか、それとも近所のおばあちゃんたちもわりとおっぱい丸出しでしゃがんでいたりしたのだろうか。なんかその辺の記憶は曖昧だ。
 こないだ発売されたばかりの『宮本常一が撮った昭和の情景』はまだ図書館に入っていなくて、でもこの写真集は本屋さんで立ち読みしたらものすごく欲しくなっちゃって、図書館で借りるのではなくて僕が自分で所有して毎晩まいばん寝る前に何度も眺めてぼろぼろにしたいぞという本で、それだけど上下あわせて六千円くらいになるのでおいそれとは買えず、とりあえず保留にしていたのだけれども、今これを書いていたらやっぱりすごく欲しい! という気持ちがどんどん強くなる一方なので、近いうちにたぶん買うことと思う。


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 明日は演劇を観に行こうと思ったりもしていたのだけれども、最近古本を買ったりしてわりとお金がヤバめなので、やっぱりたぶん明日はうちで洗濯して、掃除して、買い物してちゃんとしたごはんをつくって、それからスーパーファミコンを一時間して、図書館で借りた本を読んで、戯曲を書いて、できたら一曲新曲をつくる日にしようと思う。こないだの日曜日に善行堂で『美濃』を買ったのだけれども、その時に買わずに我慢した他の小島信夫の本も欲しくなってしまい、けっきょく別の日にひとりで善行堂に行き『小島信夫文学論集』と『月光』を買ってしまった。その他インターネットで『平安』を注文し、それからカーソン・マッカラーズの『針のない時計』も安く売っていたのでついでに注文してしまい、もうこれからお給料日まで毎日ごま塩ご飯でしのがねばなるまいというヤバさです。だから明日は演劇を観に行けません。よこえさん、せっかくお誘いのメールをいただいたのにごめん。


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 Tさんに訊きたいこと。
1、仕事
・おもしろかった仕事は?
・つらかった仕事は?
・どんな人と出会いましたか?
2、子どものころ
・どんな家族と一緒に住んでいたのですか?
・おじいさん、おばあさんはどんな人でした?
・お父さん、お母さんはどんな人でした?
・兄弟はどうでした?
・どんなことで兄弟げんかをしましたか?
・子どものころの楽しみは?
・学校での思い出は?
・お母さんはどんな料理を作ってくれましたか?
・家族で旅行とか行きましたか?
3、戦争
・呉ではどんな生活でした?
・休みの日はなにをしてました?
・お給料は何につかいましたか?
・原爆のことをもう少し詳しく。
・大和のことももう少し詳しく。
・恋とかしましたか?
4、家族
・奥さんとはどんなふうに出会ったのですか?
・どんな結婚式をしましたか?
・子どもが生まれたときはどんな気持ちでしたか?
・子育てで特に気をつけたことは?
・子どもをどんな人に育てたいと思いましたか?
・娘さんが外国に住みたいと言ったときにどう思われました?
5、その他
・大事なものはなんですか?
・一番の思い出は?
まだまだもっと訊くべきことがあると思う。しかしこんなにたくさん訊けるのか? とも思う。整理しなくちゃいかんぞ。

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 僕が小学校一年か二年くらいのときの夏に戦艦大和を引き上げるとか引き上げないとかが話題になり、僕は大和がどんな風に海に沈んでいるのかという図を新聞から切り抜いて持ってたりしたんだけど、そのときに僕のおじいちゃんはえらく僕に共感してくれて、たしか大和のプラモをかってくれたように記憶している。しかし大和のプラモなんて小学校一年くらいの人がつくれるほど簡単なものではなくて、砲台の数とか半端なく多くて、僕にもおじいちゃんにもそのたくさんの砲台をすべて大和にくっつけることができず、途中で投げ出してしまった、ということをうっすらと覚えているのだけれども、それがあまりにうっすらとした記憶なので、もしかしたら大和は買ってもらえなかったのかもしれない、とも思ったりする。砲台の数とか半端なく多いから子どもには無理でしょ、ということで結局買ってもらえなかったのではなかったか。いや、しかし小さい砲台の毛のような大砲のさきっちょがやっぱり今でも目に浮かぶので、きっと買ってもらったのだったと思う。でも、けっきょくプラモは完成させられずにどこかにいってしまった。
 どこかに行ってしまったといえばチョーゴーキンのマクロスもどこかに行ってしまった。保育園の遠足でバスに乗ってどこかの遊園地に行ったときに母が買ってくれたもので、わりと気に入っていたはずなのに今ではどこに行ったのか分からない。きっとどこか壊れて捨ててしまったのだろうな。チョーゴーキンという言葉は僕の子ども時代に僕の周りでたいへんはやっていた言葉なのだけれども、あれは「超合金」ということなのだろうか。あのマクロスはたしかに鉄っぽいひんやりとした肌触りと硬さで、その金属の固まり的なずっしりとした重さが今でも手のひらに残っているような気がしなくもない。

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 甘もの会のための戯曲にはやはりお約束として甘ものをださねばなるまいと思い、今のところたいやきが出て来ることになっている。僕はわりと甘いものをお芝居に登場させることが多くて、初めて上演した『ようかん』ではようかんとプリンを出したし、『牛乳パッタ』ではおはぎを出したし、『炬燵電車』ではアンパンを出した。なぜか? なぜ甘いものなのか? それは甘いものには何か周りの空気をほっと緩ませる力があると僕が考えているからで、ある人から聞いた言葉で僕の好きな言葉というのも、やっぱり甘いものについてのことばです。
僕「お菓子とか買うよりも納豆とか買ってご飯食べたほうが栄養になると思いますよ」
その人「お菓子は心の栄養です」
僕「シェー!」
そうか、そんな考え方がこの世に存在するのか。体の栄養のことしか考えずに食べ物を選んでいた僕はなんと馬鹿だったか! なんと貧しいものの考え方をしていたものだったか! それを考えると一発どやしつけられたようで、それで「シェー!」と言ったのだけれども、これは本当に僕がその時「シェー!」と言ったわけではなくて、僕の心の声です。
 そういうわけなので、たぶん今度の戯曲にはたいやきが出て来る。

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 昨日ジョン・ケージを聴いて考えたのだけれども、僕は普段ロック音楽をつくって演奏しているので、ロック音楽にはわりと免疫ができてしまっているみたいで、どんなロックを聴いても「ふーん、なるほどな」くらいにしか思わなかったりする。ツェッペリンとかクリームとか聴き始めたころは「スゲー!」つって何度も繰り返し聴いていたのだけれども、最近では「はいはい、ツェッペリンでしょ、ノッポさんでしょ」とか言ってわかったような顔をして聴きながしてしまったりする。で、ギターとかピアノとの伴奏で歌を歌ったりするロックとかポップスにはあまり感動しなくなっちゃったっぽいんだけど、合唱とか現代音楽とかを聴くと普段聴き慣れていないせいか、「スゲー!」と感動しちゃう。だけど感動と書いてしまうと少し違う気もして、感動というよりも「世の中にはまだまだ俺の知らない音楽があるんだな」という、「もっとこういうのを聴いてみたい」という、そんなこころもちになる。

これはブルガリアの人の合唱ですが、ブルガリアの合唱はめちゃくちゃすごいです! どうかヘッドホンでじっと聴いてみてください。
 
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 Tさんが自分の人生を若い人たちに語って聞かせているのを隣の部屋で聞いている奥さんの気持ちはどんなだろう? 私の人生の話も誰かに聞いて欲しいと思うのだろうか?

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 人の考えとか意見とかを聞くよりも、その人が体験したことの話を聞くほうがおもしろいと思う。
 今日もTさんのお話を聞いている途中でTさんが「戦争はやったら絶対・・・」ということを言うので、これは「絶対あかん」というのだろうと予想してしまって、でもなんかそれって普通に一般論だよね、誰でも思うことであって、わざわざTさんのうちにおじゃましなくても普通にテレビとかで聞ける意見だよね、と思ってしまい、そういう意見よりは呉で見た大和の話のほうが断然おもしろいな、と思いつつ話の続きを待っていたのだけれども、Tさんは「ぜっったい・・・」といってちょっと眉間にしわを寄せて力のこもった間を置いたあとで、「勝たなあかんですな」と言って、それから北にはいっぱつ爆弾かましてやったらええんや、みたいな話になって行ったのだけれども、それだってやっぱりありふれた意見であって、テレビで誰かが言っていたり、まんがで誰かが書いていたりする。人の意見なんて、たまたま育った家で『週間金曜日』を購読していたとか、『SAPIO』を購読していたとかだけで、けっこう簡単に右にでも左にでも振れるものなのではないか。それよりもその人だけが体験したことのほうがずっとオリジナルでおもしろいんじゃないか、というのが俺の意見です。
 そうゆうわけで今日はもう寝る。