大和!

 友達のDさんにさそわれて老人の伝記を書くというボランティアに参加することになり、そのために今日はTさんというおじいさんの家に行き、Tさんのお話を一時間ほど聞いて来た。Dさんから「ボランティアやらへんか」という電話がかかって来たときはめんどくせーなーとか思って、「いや、俺結構忙しいっす。無理っぽいっす」とか言って逃げようとしたのだけれども、やっぱり老人の話を聞くことがこれからの僕の創作とかに役立つかもしれないなどと思いなおし、それでボランティアを引き受けることにした。六回くらいお話を聞きに行って、それを一冊の本にまとめて今度の敬老の日にそれをおじいさんに渡すというボランティアで、なんでノーギャラでそんなめんどくせいことしなきゃならねいんだとか思っちゃうと大変な仕事っぽく見えるけれども、実際におじいさんの話を聞きに行ってみればこんなおもしろいことはそうそうないのじゃないかと思うほどで、やはりやって良かったなと、まだ一回目がさっき終わったばかりのところではあるのだけれども、思った。
 しかし老人から聞いた話をどのように本にするのか。どんなふうに書けばいいのか。うちに帰って石井桃子の『幼ものがたり』とか桑原武夫の『思い出すこと忘れえぬ人』とかをパラパラとめくってみるが、これらの本は自伝であって、自伝の書き方と伝記の書き方とはやはり違うもなのだろうと思い、ヴァージニア・S・カーという人が書いた『孤独な狩人』というカーソン・マッカラーズの伝記をのぞいてみるが、こういう書き方もなんだかTさんの伝記には向かなそうな気がする。では、Tさんがしゃべった口調をそのまま活かして「〜でっしゃろ?」とか、そんなふうに書くのがいいのかしら。うーん、それもどうなのか。
 それにしてもTさんが呉のドックで戦艦大和を見た話や呉港で原爆の音を聞きキノコ雲を見た話にはたまげた。京都に居ながらにして戦艦大和を見た人に会える、原爆を体験した人に会える、その話が聞けるという貴重な体験にふるえあがり、腰を抜かして座りしょんべんといった心持ち。Tさんの話を聞きながら僕の頭の中には大きなドックの中で黒光りしている大和がほわほわと浮かび上がり、原爆の雲もほわほわと浮かび上がり、見たこともない昔の景色がなぜかわりとありありと目に浮かぶ。
 いま職場の休憩室にはこうの史代のまんががほとんど全部そろっていて、欠けているのは『この世界の片隅に』だけなのだけれども、『この世界の片隅に』はどうやら呉が舞台であるらしい。大和が呉港に入港してくる場面も出て来るらしい、これはやはりどうあっても俺は読まねばなるまい。どんなにお金がなくても『この世界の片隅に』を買わないわけにはいかないのじゃないか。
 Tさんのお家でかってる白猫のMちゃんもでっかくてかわいかったな。