五反田団『びんぼう君』を見た 

 2月の第2週に五反田団が京都にやってきた。僕は妻とふたりで8日の水曜日に五反田団の上演する『びんぼう君』を見に行き、それから土曜日に今度は僕ひとりで五反田団の手伝いをしに行った。手伝いというのは開場前に客席に掃除機をかけたり、開場してからは観客を場内で案内するというもので、「足元お気をつけください」とか「奥の方が見やすくなっております」なんて適当なことをいいながら、劇場内の暗がりで20分ほど時間をつぶしたあと、そのまますみっこの客席に座り、『びんぼう君』を見ることになった。
 水曜日は観客として見て、土曜日は昼公演と夜公演の二回、スタッフとして見て、合計三回僕は『びんぼう君』をみたのだった。
 お客さんを「こちらの席が若干見やすくなっておりますよ」などといって案内したあとでこの演劇を見ると、僕はそのお客さんに座ってもらった席からの眺めを想像しながら作品を見ることになる。僕が「見やすい」と案内したあの席の人は本当に見やすいと思って作品を見ているだろうか? ひょっとしてあそこの席は窓枠が邪魔になって見にくいのではないか? 俳優の演技を正面から見られる席だ、ということで案内したけれども、はたして俳優を正面から見ることが本当に見やすいことなのか? ちょっと角度をつけて見た方が見やすかったりするんじゃないか? 上演中そんなことを考えながら僕は作品を見ていた。そのとき僕が座っていた席からは、舞台を斜め上から見下ろすことになるのだけれども、僕は頭の中で、劇場の別の席に座る人が見ているはずの、舞台を少し見上げるように見ている視点を想像して、その視点からも作品を見ていたようだった。
 僕は職場の人に「五反田団おもしろいから見に来なよ」と声をかけておいたのだけれども、声をかけた二人が土曜日の夜の公演を見にやって来た。僕は「前の方の席が空いております」などと言って一番前の席に案内して座ってもらい、そして自分はすみっこの席で三度目の『びんぼう君』を見た。そうすると今度は、五反田団の演劇を始めてみるこの職場の同僚がどのように作品を見るのか、ということを想像しながら作品を見ることになる。東京でおもしろいものを関西に住むこの同僚はおもしろがるだろうか? このセリフはあとでおもしろいことになる伏線になるんだけど、同僚たちはこのセリフを聞きのがさなかっただろうか? そんなふうにやきもきしながら作品を見ていると、やっぱりこのときも僕の頭の中には、前の方の席にいる同僚が見ているであろうものが想像され、それを見ることになる。
 演劇を見るということは、同じ劇場にいる自分以外の観客の眼を想像しつつそれを見る、ということなのだな。と思う。誰かと一緒に何かを見るということは、それを一緒に見る誰かの眼に自分の眼を重ねながら見る、ということだ。
 思い返してみると、このように他者の眼をイメージしながらものごとを見る、ということは、演劇を見る以外のときにも僕は経験していたことだった。もう何度もクリアしたことのある『スーパー・マリオ・ブラザーズ・3』を、まだクリアしたことのない友達の見ている前でやるとき、などがそうだった。そんなとき僕は、最後のボスのクッパの場面にたどりつくと、それを初めて見る友達の眼に自分の眼を重ね合わせて、あらためて新鮮な気持ちでクッパとたたかっていたのではなかったか。
 小学生のときのある夏休みに、家に泊まりに来た年上のいとこと一緒に『宇宙刑事ギャバン』を見たときは、しかしそれとは違って、年上のいとこも僕と同じように「ギャバン」を楽しんでくれたらいいのだが、というような、相手の眼を自分の眼に同化させようとしつつ見ていたような、そんな記憶がある。どうか「ギャバン」を馬鹿らしく思わないでくれ、ギャバンは今とても大切なことのために戦っているのだから、それをわかって欲しい、どうか鼻で笑わずに見て下さい、とそんな祈るような気持ちで、いとこの顔をちらちらと伺いつつ、僕は「ギャバン」を見ていたのではなかったか。
 そうすると、誰かと一緒に何かを見るということは、自分の眼をその人の眼に重ねる、というだけではないし、その人の眼を自分の眼に重ねる、というだけでもなく、自分の眼と誰かの眼とのまじりあった、自分でもその人でもない、その中間あたりにあるはずの別の眼で見る、ということなのだろうか。私と誰かの中間にある視点、みたいなものが、その場にいる人の頭の中に想像されて、その想像上の眼でものごとを眺める、みたいな。

 しかし、なんの話をしていたのだったか。「ギャバン」の話だっけ?
 いや、五反田団の話だったのだった。
 五反田団の人たちと僕とは久しぶりに会ったのだから、晩ごはんでも一緒に食べようじゃないか、ということになり、水曜日も土曜日も僕は五反田団の人たちが泊まっている宿に行き、鍋をつついてビールを飲んだ。そうするとおもしろい話がいっぱい出る。誰かがお風呂で…、とか。あのとき誰かが誰かの焼酎を飲んでしまった、それが別の誰かのせいにされたのだけれども、それは別の誰かが失恋したあとだからで…、とか。誰かが彼女と付き合うきっかけになったのは…、とか。そんなことをガハハハハと笑いながらいつ終わるともなくしゃべっていると時間のたつのも忘れて、五反田団は銭湯に行きそびれたりしていたのだった。
 その場にいる人のうちのほとんどがすでに知っている話でも、そこにその話を聞いたことのない人が加わると、その話はもう一度話されることになり、そうすると、その話をすでに聞いたことのある人は、その話を始めて聞く人の驚きやおもしろさを想像して、もう一度はじめてその話を聞くような気分になれるみたいだ。だから大勢で酒を飲みながら話をすると、おなじみの話題のはずなのに、それが予想外に盛り上がってたのしい。
 そうやって大勢で話すとき、やっぱりそこには何か、自分とそこにいる人たちとの眼(というか耳というか)の混ざり合った、私のでもないし他人のでもない見え方(聞こえ方)みたいなものが出現しているのか。

 演劇が演じられる劇場でも、そこには、舞台上で演じる俳優の眼、観客の眼、演出家の眼、スタッフの眼、そんないろんな人の眼が混ざっていて、そこに何か、それらの混合物みたいな眼や耳があり、その場に集まっている人たちはその想像上の眼と耳で舞台を見ているということになるのかもしれない。とか考えてみる。