noise-poitrine2012-07-03

 世の中に今流通している価値観、それが主流であると思い込まされているもの、それらからどれだけ遠く離れられるか、ということが芸術作品の勝負のかけどころではないか。例えば演劇作品をつくるとき、美男美女が恋愛をする、そんなことは当たり前のことで、いまさらそれを見せられてもそこにリアリティーを感じられない。むしろ、恋愛をするヒロインの器量がだいぶ悪い、という作品の方に僕リアリティーを感じるような気がする。
 ヒロインの器量が悪ければ恋愛がなりたたないじゃないか!? そんなわけがない。フィクションの外では、不器量な人もいっぱい恋愛をしている。
 テレビに出て来るヒロインはみんな美人じゃないか!? テレビで見ることのできるものこそが、それが主流であると思い込まされているものばかりなのではないか。テレビに映るもののほとんどが、大企業や政治家や金持ちやヤクザに都合のよいものばかりなのかもしれないじゃないか。権力や金を持っている者が、権力も金も持っていない者を動かすのに都合が良いもの、そんなのばっかりテレビで流しているんじゃないのか。 
「いかにも」や、「らしさ」に頼らずに何かを作り上げること。例えば演劇で議員を演じようとするとき、100人の議員の平均を演じてしまっては、今世の中に流通している価値観(権力者や金持ちに都合のよい価値観)に迎合することになる。100人議員を集めた時にそのなかに1人しかいないような議員、議員らしさから程遠い議員を演じること、そんな議員がいるわけないのに、どういうわけか議員に見えてしまう、というぎりぎりのエッジの議員をどうつくりだすか。というところに演劇の面白さのひとつがあるのではないか。しかしそれはどんな議員か? たとえば、議員なのにいつも荒巻鮭をはだかで持ち歩いているとか、そんな議員だ。
 演劇はもっと自由につくることができるはずなのに、自分で自分に規制をかけ、無難なものをつくってしまう。こうすれば議員にみえるだろう。という無難な演技をしてしまう。こんなことをしてしまっては作品が破綻してしまう、という不安とか、こんな作品が受け入れるはずがない、という思い込みが僕の中にある。しかしそれは本当に僕の考えなのか? 僕の中に入り込んだ誰か他人の考えなのではないか。親やら先生やらテレビやら雑誌やらによって知らない間にすり込まれたそれらの考えは、金や権力を持っている誰かの考えなのではないか。僕の頭の中にあるそれらが僕を束縛することから自由になりたい。