伊勢丹

 『電車道』を読み終わった。この、最後の、町の様子がたんたんと書かれる場面はなんだろう。これまで書かれてきた話が終わってしまって、だけども話が終わろうがなんだろうが世界は続いて行く、みたいな感じ。いつかどこかでこの感じを味わったぞ、と思って、だけどなかなか思い出せなくて、それでずっと考えていたんだけど、ああ、そうだ、ワイルダーの『わが町』だった、と思い出した。『わが町』は十年くらい前、戯曲の勉強に燃えていたときに買って読んで、その後古本屋に売ってしまったので、今は手元になくて、参照できないんだけど、たしか、主人公の女の人がお墓に入っちゃったあとで、それでもたんたんと流れて行く町の時間、というのを「舞台監督」という登場人物が観客に説明する、みたいな感じで、それを死んでしまった女の人が「ああ、あの何気ない時間が自分の人生にとってはかけがえのない時間だったんだな、もう二度と戻ってこないんだけど」と思いながら見ている、というような終わり方で、10年前の僕はものすごく感銘を受けたのだった。『電車道』は、そんなふうにあからさまに読むものに感銘を受けさせるような小説ではないんだけど、それでも読み終わった後ではなんだか読み始めたところからものすごく遠いところまで来てしまったなあ、というふうに感じて、ぼうっとしてしまう。
 だって、そもそもはおっさんが家出して洞窟に住む話だったんだのに、はて、なんで僕はこんな場所に立っているのかしら? でも、読了した時点で僕が立っている場所は実は小説の冒頭に出て来た洞窟の入り口だったりする。
 満員電車の中で男女がやむを得ずぴったりとくっついちゃう場面にはなんだかドキドキしてしまった。この二人は、やっぱり結婚するしかないんだよな、と思う。人間の力ではどうすることもできない大きな力、みたいなのが『電車道』にはいっぱい出て来る。
 磯崎さんの小説は、前触れもなく、いきなり話題が変わるところがあって、それがけっこう好きだ。「この世界はとうとう終末を迎えるのではないだろうか? 東京・新宿のデパートで一丁千円の豆腐が売り出された」とか、改行もなく、いきなり話が豆腐の話題になる。読んでいるこちらはあまりに突然なので、しばらく「?」と思いながら読むことになって、この「?」と思いながら読んで行く宙づり感みたいなのが好きだと思う。で、そうやって読んで行くとおしまいには「もしこのニュースが嘘だったとしても、視聴者である俺たちは残りの人生を桐箱入りの、一丁千円の豆腐を思い浮かべながら生きるしかないのだぞ!」とかいってキレていたりして、このキレる感じがまた面白くて笑っちゃう。

 明日は家族三人で早朝の新幹線にのって東京に行く。僕が書いた演劇「わたし今めまいしたわ」の上演を観るため。そして演劇を観たあとで磯崎さんとアフタートークをする。娘は東京をうろうろするのは人生初。伊勢丹にオムツを替えるとことか子供が遊べるとことかがあるらしいんで、いざとなったら伊勢丹に逃げ込もうっと。