植木鉢に水

 『電車道』は読み終わってしまうのがなんだかもったいないような気がして、なるべくゆっくり読むようにしていたのだが、とうとう残り20ページというところまで来てしまった。
 南の島での『巨大蛭』の撮影の場面では、なぜかビートルズの映画『Help!』を連想する。『Help!』はもう十年くらい前にレンタルビデオで一度観ただけなので、細かいところはあまり覚えていないのだけれど。「若い人たち特有の、思わず吹き出してしまうような、ふざけた出来事が起きるのを今か今かと待ち構えている感じがあった」というところなんかを読んでいると、昭和40年前後のあの時代に、世間の人たちがビートルズに期待したのは、きっとこういうことだったのだろうな、と思う。1960年代のはじめ頃になると、ポップミュージックのコード進行はだいた決まっちゃっていて、ドレミファのダイアトニックから一歩も出ないで、なんかどれを聴いても同じような感じで飽きて来たな、つまらないな、というときにいきなりビートルズがフラットした7度のコードとかをガーンと鳴らして、わあ、この4人の若者たちはきっと何かおもしろいことをやってくれるにちがいないぞ! と若い人たちはみんな夢中になっちゃった、みたいな、60年代の空気が頭に浮かんで来る。1960年代は、きっとそこら中にこうゆう期待感みたいなのが充満していたんじゃないかな、楽しそうだな、とうらやましいような気持ちになる。
 そして「真夏の奄美大島の長期ロケで俳優とスタッフの間に生まれた不思議な大らかさや高揚感、ある種の化学反応が再現されることはなかったのだ」という文章で、僕も自分が過去に経験した高揚感や化学反応を思い出す。2年がかりで上演した前田さんの「生きてるものはいないのか」に出演したときのこととか、ザ・ノーバディーズのライブで犬島に行ったときのこととか。僕の今回の人生ではもう二度とあの演劇やライブは体験できないんだよな、と思う。もう一度同じメンバーで演劇をしたりライブをすることがあったとしても、あのときに感じた高揚感みたいなものは戻っては来ないだろう。とか思うと少しさみしいような気持ちになる。
 いや、しかしそんなことを言っている場合じゃないぞ。僕は今、1歳の娘の子育ての真っ最中で、これはやはり人生に一回しか来ないはずの面白い時間を過ごしているんだから、感傷的な気分になんかなっていないで、子供との時間を有意義に過ごすことがいま一番に優先されるべきことなんだ。家族3人で食卓を囲んで下らない雑談をしながら夕食を食べる時間、とか、そんなのはいつまでも続くわけじゃないんだものな。
 「子供たちにしてもけっしてこれらの番組を面白がって観ていたわけではなかった。半ば定型化された義務のように、ただ何となくぼんやりと観ていた」。たしかに子供の頃に観ていたアニメなんかは僕はこんなふうに観ていたような気がする。金曜日の『ドラえもん』も水曜日の『ドラゴンボール』も、毎週楽しみに観ていたわけじゃなくて、ただ、今日が何曜日かを確認するためだけに観ていたような気がする。しかし、この文章の後に続く鍋が燃える話はいったい誰の話なんだろう? さも特定のだれかの話みたいに書いてあるのだけど、それは実は誰でもなくて、というか、小説の筋に関係のある人の話じゃなくて、ただ、この時代にこういうことがどこかで起こっていたんだ、というふわふわした感じで。このフワフワ感が僕は好きだなあ、と思う。ギターのコードで言ったらsus4みたいなひびきだろうか。sus4がどこにも解決せずにそのまま空中に投げ出されるみたいな。だのに「焦げた苦い味のするカレー」という苦さがやけに具体的で舌に残るみたい。
 おとなから「偉いなあ」と言われるのがいやだ、できれば「偉いなあ」と言われずに良いことをしたい、というのは僕も子供のころにあったような気がする、と子供の頃の気分を思い出したり。
 磯崎さんの小説には、たびたび子供と過ごす時間の大事さ、みたいなことが出て来る。「見張りの男」にも「子供なんていうものは甘やかせるだけ甘やかして育てないと、大きくなってからもおくるみで包んでやるかのように過保護に育ててやらないとダメなんだ、さもないと復讐のために一生を浪費する人間ばかりでいずれこの世界は埋め尽くされてしまう」という文章が出て来て、それを読んだとき僕はそうか、子供を甘やかすのは悪いことじゃないのか、と眼からうろこ、みたいな思いをしたのだった。世間では、たぶん子供はあんまり甘やかすとだめになっちゃうよ、と言われているはずで、だからその逆のことが書かれているのを読んでなんだか安心した。で、『電車道』を読んでいたらこんな文章も出て来た。「彼女の腰にも届かなかった小さな背丈の、あの愛らしい、大きな瞳の子供はどこへ消えてしまったのだろう、今ここに横たわっているのは髭も脛毛も生えた別人だ、背丈だってひょろひょろと伸びて、長身の彼女よりも高くなってしまった、こんなことになるのだったら、十年前の子育て時代のあの一日を、あの一晩を、もっと大事に味わい尽くしておくべきだった、あそこに留まり続けるべきだった、息子のどんな我がままでも聞いてやり、欲しいものは何でも買い与えてやればよかった……全てが手遅れだったが、彼女に限らずその手遅れに先回りできた者など一人もいないし、その手遅れをこそ彼女じしん望んだようなものなのだから、諦めるより仕方がなかった。」こんなのを読んじゃうと、ああ、俺の娘よ! 君をほったらかしてギターばかり弾こうとするトトが悪かった! と娘に飛びついて抱きしめたくなる。のだけど、娘と一緒に植木鉢の植物に水をやっているときとかに、ふと、「チャットモンチーの『シャングリラ』に出て来るC7はつまりメジャーの3度のコードということになるのか、そうするとメロディーにフラットしたラの音を歌うことができるのだな、あのコードは何度聴いてもハッとするけど、やっぱりチャットモンチーはこのコードをビートルズからパクって来たのかしら……」とか、ぜんぜん関係のないことを考えてしまっている自分に気がついて、「いかんいかん、いま眼の前にいる娘に集中しなくては。刻々と変わって行く娘の今を見逃してはいけないぞ」と頭をふる日々。
 娘の語彙が爆発的に増えている。寝言でも「三匹の熊―」とか「大丈夫大丈夫」とか「ぶたぶたくんのおかいものー」とか言っている。名前が分からないものは「これ」と言って指さして、「それはトマトだ」などとその物の名前を教えてやると、「トマトおいしいねー」とか言って、すぐにその単語を使いこなしてしまう。
 保育園から帰って来た娘の顔をみると、なんだか昨日よりもちょっとだけ大人っぽくなっている。毎日まいにちおとなっぽくなり続けている。もうちょっとゆっくりでもいいんだけどなー、と思いながら娘と一緒に植木鉢に水をやる日々。