タマシイムマシン

 あのNICUに行けば二年前の僕と妻が生まれたばかりの娘を交代で膝に乗せている。過ぎた時間は消えてしまうのではなくて、どこか遠い場所へ離れてしまっただけだ。と感じるとき、僕の頭の中では時間と空間がごっちゃになっている。過ぎてしまった時間はぜんぜん過ぎてなどいなくて、何か乗り物に乗ってそこまで行くことができれば、あの時間は今でもそこにあり、これからもずっとそこにあり続ける。というその乗り物は電車とかバスとかじゃなくてタイムマシンだ。
 僕が小学生の頃、というのは1980年代の後半だけど、その頃は僕のまわりにSFの読み物がたくさんあった。たぶん昭和40年代ころにSFのブームがあったのだと思うけど、学校や図書館にはブームの頃のSFの読み物がまだ破棄されずに残されていた。宇宙に行く話、宇宙人が来る話、未来の地球を舞台にした話、過去や未来に行く話など。僕は宇宙に行く話も好きだったけど、タイムマシンに乗って過去に行く話も好きだった。過去に行く話はもう手当たり次第に読んだ。
 女の子は母親から、母親が子供の頃に着ていたというコートを譲り受けた。コートのポケットからバスの回数券が出て来る。今でも近所を走っているバスの回数券だったが、でもだいぶ古いもので、たぶん母親が子供の頃に使っていた回数券だ。女の子はたまたまそのバスに乗り、降りるときに間違って古い回数券を運転手に渡してしまう。バスを降りればそこは見覚えのない場所だった。畑と田んぼばかりだ。おかしいな、降りるバス停を間違えたのかな、それにしても、こんな景色は今までバスの窓から見たことがなかったけれど、と思いながらあたりを少し歩いてみると、神社へと続く石段があり、この石段はいつも見慣れた石段と少しも変わらず、石段を上ってみればそこにある神社はときどき境内で遊ぶあの神社と同じだ。神社で遊んでいる女の子に声をかけてみた。名前をきくと母親と同じ名前だ。私は、もしかして、お母さんが子供だった頃のバス停で降りてしまったのではないか、そしていま目の前にいるのは子供時代のお母さんなんじゃないか。とか、そんなふうな物語に僕はものすごく興奮した。
 あるいは、裏山にUFOが落ちた。見に行って見ると宇宙人が怪我をして血を流している。緑色の血を流している。急いで家に帰り、救急箱を持って戻り、宇宙人の怪我を消毒して包帯を巻いてやると、お礼に過去の時間に連れて行ってやろうという話になり、少年は江戸時代に連れて行かれる。今では裏山に登れば団地やらスーパーマーケットやら電車の駅やらが見おろせてけっこう人口も多い町なのだけれど、江戸時代のその頃はまだここは田畑の広がる農村だった。この農村が飢饉だか伝染病だか百姓一揆だかでピンチに陥ったとき、この少年と宇宙人が村を救い英雄になる。町に言い伝えが残る英雄とは自分のことだったのだ。
 今ではかすかに痕跡が残っているだけの薄ぼんやりした過去を自分の目で見て、過去に生きた人たちと現在の自分とは確かにつながっている、お互いに影響を与え合っている、ということに気がつく、とか、そんな話が好きだった。
 タイムマシンと言えば何と言っても『ドラえもん』だ。子供の頃は『ドラえもん』の漫画を何度も何度も繰り返し読んだものだ。小学校から中学校にかけて少しずつ買い集めていった『ドラえもん』は、僕が中学校を卒業する頃には四十二巻だか四十三巻までそろっていて、一巻から読み始める僕は何日もかけて最後の巻までたどり着くと、また一巻に戻って最初から『ドラえもん』を読む。十巻までしか手元になかったころは一巻から十巻まで読むだけだからそれほど時間がかからない。五巻までしか持っていなかったときは一巻から五巻まで読むだけだからあっという間に読み終わる。休みの日に一日炬燵にもぐって読んでいれば全部読めてしまう。繰り返して読んだ回数は番号の若い巻が断然多くなる。一巻から十巻くらいまでの『ドラえもん』が特に印象に残っているのは繰り返して読んだ回数が多いからなんだろう。「タマシイムマシン」という秘密道具がある。「タイムマシン」ではない。タマシイムマシンは、タイムマシンをもじったもので、タイムマシンと同じように過去の時間に戻ることのできる秘密道具なのだけど、それを使う人(『ドラえもん』の中ではのび太)の知覚というか意識というか思考というか、そういった脳の中身だけが過去のあるときの自分の体に戻っていく、転送される、というところがタイムマシンと違う。そこでは私は過去の私が見ていたのとそっくり同じものを、過去の私のからだをとおしてふたたび見ることができる。死んでしまったお爺ちゃんにも会うことができる。そのとき、私はその過去の時間で何を言うのか、何をするのか。過去に戻った私はその過去に私が言ったこと、したこと、とは違うことを言ったりしたりできるのか。それとも、私は未来の私の意識で、「ああ、私はあの時あの人に言ってしまったのとそっくり同じことを今くりかえして言っているのだな」と思いながら過去を繰り返すのか。
 僕がときどき、「今この瞬間にもういちど戻りたくてしかたないと思うときが将来きっとくるはずだ」と思うのは、僕が子供時代に『ドラえもん』の「タマシイムマシン」を読んだせいなのか。
 いつもは妻が娘を保育園に迎えに行っているのだけど、その日は僕が娘を迎えに行った。娘はまだほとんど言葉をしゃべれなかった。一歳を過ぎた頃か、一歳になる前か。夕方六時前、ほとんどの子供は帰宅していて、ゆき組の部屋には三人くらいしか子供が残っていない。その部屋に僕が入って行くと、娘は「あっ」という顔をしてじっと僕を見た、というあの「あっ、あの顔は知っている顔だ、いつも一緒にお風呂に入っている人の顔だ」という顔を僕はもう一度見たい。タマシイムマシンであのときの体に戻ってもう一度あの顔を見たときの嬉しさを体験したい。娘はすぐに僕のところに来ようとして、あのときはまだハイハイしかできなかったから、あわてたような、けっこうなスピードのハイハイで僕の方に向かって来たけど、牛乳パックを接着テープで組み合わせてつくられた手作りの柵が僕と娘の間にあって、娘はこちらに来られない。ハイハイで柵まで来た娘は柵につかまって立ち上がり、僕の方に手を伸ばして、だけど僕は家に持って帰って洗うために娘が汚した布オムツを回収したりしていて、すぐに娘のところに行くことができない。娘はバンザイのように僕の方に手を伸ばした格好のまま、とうとう泣き出してしまった、というあの泣いている娘のところへとんで行って抱きしめてあげたい。オムツなんてどうだっていいじゃないか! なんだってすぐに抱きしめてあげなかったんだ! 十時間ちかくもカカとトトと離れてよくがんばった! と言って抱き上げてあのふわふわと軽くやわらかい髪の毛に鼻やほっぺたをこすりつけたい。という思いが、きっと僕が歳をとるに従ってどんどんふくれあがって行く。