森達也の『FAKE』をみた

 みなみ会舘だとばかり思い込んでいたから「京都シネマで待ち合わせしましょう」というメールを読んでも僕はその文字を「みなみ会舘で待ち合わせ」というふうにしか読むことができない。夕方7時ちょうどにみなみ会舘について、受付の人に「『甘くない砂糖の話』ですか?」と聞かれて「いえ、『フェイク』です」と答えると「京都シネマですね」と思ってもみないことを言われてしまい、「間に合いますか?」と心配までされて、あわてて道路に飛び出してタクシーを拾ったんだった。みなみ会舘から京都シネマまではタクシーで10分で行けて、1150円という痛い出費があったが(九条まで行った地下鉄の切符代を合わせるともうちょっと高くなるけど)なんとか7時20分からの映画には間に合ったし、一緒に映画をみることになっていたつんじよりも1分くらい早く京都シネマにつくことができた。
 僕は「佐村河内っていうヤツは耳が聞こえないフリをしていただけで、記者会見のときに手話が全部終わってないのに質問に答えていたらしいよ」などという話を聞いたときに「えー、ダメじゃんか、それ」などと言っていた自分が恥ずかしい。テレビなんかのマスメディアは佐村河内さんの聴覚障害について視聴率がとれそうな、視聴者が喜びそうなところだけを切り取って放送していたんだけど、「へえ、悪いヤツがいたものだなあ」などとテレビの情報を鵜呑みにしていた自分が恥ずかしい。長髪にサングラスで気どったいけすかないやつ、という佐村河内さんのイメージも、テレビや新聞がそのように見せようと編集したものを見せられていたんだろう、僕はメディアが作り出したイメージになにも疑いを持たず、素直に信じてしまっていたのが恥ずかしい。
 あのときはテレビも雑誌もみんな大喜びで佐村河内さんのことを笑っていて、新垣さんのことを「偉大な作曲家だ」などと言ってわっしょいわっしょい持ちあげていた、そのときのテレビの映像や雑誌の文章なんかも映画にはちらっとうつるんだけど、そこに出て来るテレビ番組の出演者がとてもあさましく見える。佐村河内は嘘をついていた悪いヤツなんだからいじめたっていいんだ、むしろ正義の味方の俺たちは悪い佐村河内をいじめてやらなくてはダメなんだ、と喜んで佐村河内さんをたたく。鬼の首をとったように、いかにもおもしろそうに佐村河内バッシングをする人たちを見ていると、おとながこんな風なんだから子供たちだって当然弱いものいじめをするよな、と思う。あいつは嘘つきだから、くさいから、勉強ができないから、暗いから、だから笑い者にしてもいいんだ、という差別意識、自分を高いところに置いて弱い者を見下す姿勢は子供の中だけにあるのじゃなくて、この国に住んでいるほとんどの人の中にあるんじゃないか。
 人は自分が見たいもの、聞きたいものしか見たり聞いたりできないんだな、と思う。後半に出て来るアメリカ人のジャーナリストは「さすがアメリカ人はするどいな」という質問を遠慮会釈なく出して来る「なんで楽譜の書き方を覚えようとしなかったのか? 自分で楽譜を書けるようになれば新垣に頼らなくても作曲できたはずだ」「佐村河内が作曲ができる証拠になにか弾いてみせて欲しいのだが、しかしなんでこの家には楽器がひとつもないのか?」「いくら文字で説明してもそれは作曲したとは言えないんじゃないか? やっぱり世間は実際に音をつくった新垣の作曲だと思うだろう」そういわれればたしかにそうだ。ここまで映画を観て来ると、かなり佐村河内さんに共感する方にかたむいているんだけど、アメリカ人にするどくつっこまれてもごもごと口ごもる佐村河内さんをみていると「あれ? この人は本当に音楽が好きなのかな? やっぱりこの人は作曲なんてできないんじゃないかな?」と不安になる。でも、それは佐村河内さんをそういう風に見たいと思っているアメリカ人の目を通して佐村河内さんを見ているからなんだろうな。メディアの人の目で見たものがテレビや新聞や雑誌でこちらに伝わってくることになるんだけど、僕はそれを僕の目で見たものだと勘違いしない方がいい。
 佐村河内さんのお父さんは友達がひとりもいなくなってしまった。最後まで残っていた親友が「大宅壮一賞を受賞した大先生が言っているんだから」といって佐村河内さんのお父さんから離れて行った、親友よりも大宅壮一賞という賞の方を信じてしまった、というのが怖い。自分の目を信じるのが不安だから先生とか偉い人とか権威のある者に自分の判断を任せてしまう、というのが怖い。僕だって油断すると権威に流されてしまうかもしれない。自分ではよく分からないから、この人が言っているんだったらまず間違いないだろうから、と人に判断を任せてしまうのではなく、僕はちゃんと自分の目で見て判断するようにしないとだめだ。
 子供の頃、焼き肉に連れて行ってもらうと、僕は自分の目で肉が焼けたか焼けていないかを判断することをせず、父親に「焼けてる? もういい?」と聞いて判断を丸投げしていたものだったが、油断をするとあの頃の自分に戻ってしまい、僕は自分で判断することを放棄してしまう。気をつけねば。
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