今日は夏だった

今日は祇園祭。僕はバイト。バイト先の魚屋さんの前をたくさんの人が通って行った。おみこしを担ぐ格好をした男の人たちもいっぱい通って、なんか勇ましい感じでかっこ良かった。
空はすごく濃い青で、青というよりも藍色ぐらいの濃さだった。

   @@@

今度つくる演劇のヒントになるかなと思い、以前書いた自分のブログをみていたら書き抜きの記事を見つけた。これ。もうすっかり忘れていたけど、「カキヌキその3」なんか読むと「ああそうだ! そのとおりだ!」とひどく感心して納得する。平田さんは良いこと書くなあ。
「かや子のへそ」を演出するときも、「演劇は、関心させるだけではダメで、感動させなくてはならない」とか、「話し手に関する様々な情報を伝えるのは、言葉の意味内容ではなくて、声の質なのです」とか、そーゆーことを考えながら演出できたら良いなあ。
今年の2月くらいに青年団の『革命日記』という演劇を観たんだけど、あの演劇のなかで印象に残ってるのが、女の子が恋人の男の子のほっぺたをきゅっきゅっとつまむ仕草で、ああいうのがあるだけで、とくに言葉で何も言わなくても、「嗚呼、この女の子はあの男の子が好きなのだなあ」ということが観客に伝わってくる。そんなふうな演出を僕もこころがけよう。

   @@@

ここに書いてある書き抜きにも感心した。
「表現というものは、芝居も歌も演奏も舞踏も、そして文学や美術も、すべて決定です。決定して、その是非を人々に問うのです。したがって表現には社会的責任が生じます」と書いてある。
そうだそうだ、演出家はいろんなことを決定して作品づくりをするのだな。いろんなことを決定するから、演出家には責任が生じる。責任逃れをしないように、「どーんとこい」というどっしりした態度で演出せねば。

   @@@

ついでにこの書き抜きにも感心した。山下さんはあんなにもとんがった生き方をしていたのだ。俺の生き方なんてなまぬるいものだなあ。

   @@@

この日の日記にその時に書こうとしていた『炬燵電車』の構想が書いてあるんだけど、これがなんだか『かや子のへそ』の構造と似ている。そうか僕はこのころからこーゆーことを考えていたんか。『炬燵電車』ではこのアイデアは使わなかった。この構想はすっかり忘れていたはずなのに、頭のどっかに残ってたんだな。

   @@@

この日の日記にはセレノグラフィカのまほさんから聞いた話がかいてあるんだけど(やっぱり僕はすっかり忘れていた)、「安心して踊るな」っていうのはすごいなあ。こないだ会った詩人が「安心して生きるな」みたいなことを言っていたけど、たしかに不安定なもののほうがおもしろいのかもしれない。

   @@@

この書き抜きもおもしろい。むかしの日記を読むと、なんだか勉強になるなあ。