虚空蔵の石

昨日のブログには愚痴を書いたけど、あの缶ビールの一件以外は、五反田で過ごしたお正月は平和で楽しいお正月だった。なにが楽しいって、やっぱしいろんな人と会えたのが楽しかったな。
一年に数回しか会えない東京の友達と再会できたのが良かったし、それから新しくいろんな人と知り合いになれたのも楽しかった。
かわいい女の子たちと知り合いになれたのも嬉しかった。僕は世の中で何が一番きれいかと訊かれたら、かわいい女の子が一番きれいですと答えると思う。
今年のお正月はゆりっぺやチーコと知り合えたし、テルミン大学のさえちんとも知り合いになれたし、オムトンのたかちゃんとも知り合いになれたし、朝子さんとはマイミクになれたし、大変豊かな実りあるお正月だったなあ。

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お正月に東京に行ったついでに、群馬の両親の家に一泊だけ泊まりにいった。おいしいご飯を食べて、祖母が16歳だった頃に出稼ぎに行っていた三重県の巨大な紡績工場の話を聞き、祖母が父を生んだときの話を聞き(祖母は父を生む直前まで畑仕事をしていたのだという。しかも、父を生んだ3日後には友達の結婚式の手伝いに行ったのだそうだ。なんとタフな祖母であることか!)、これも大変実りある帰省だった。
帰省したついでに虚空蔵の石を見に行った。



母が子どもだった頃、ていさんと呼ばれる力自慢のおっさんが、この石をかついでは人に見せていたのだという。僕も触ってみたけど、ちょっとぐらぐら動かすのが精一杯だった。
僕は2,3年前から大きな石というものが気になっていて、『どんぶらこ』という戯曲はダムの底に沈んでしまう石のことを書いた戯曲だし、『犬の眼、石の耳』は石かつぎの人が延々と石をかついだりおろしたりする周辺で話が展開する戯曲だし、それから今年書こうとしている戯曲でも、やっぱり大きな石が結構中心的な位置を占めることになる予定になっている。
石が経験するたいへんな長い時間と、ひとりの人間が経験するそれほど長くない人生の時間との対比みたいなものが、僕は気になっているのかもしれない。
昔生きていた人が、石を触ったり持ち上げたりした感触を、石は記憶しているのかも知れないなあとか、そういうことが気になるのだ。