今日は弟夫婦の暮らす団地に遊びに行き、しゃぶしゃぶを呼ばれた。たぶんこれが僕の人生で二度目のしゃぶしゃぶである。人生初のしゃぶしゃぶ体験は二十三歳のときで、バイトをしていた花屋さんで母の日の忙しさをのりきったご褒美にごちそうになったものだった。あのとき腹一杯しゃぶしゃぶを食べた帰り道で甘いものは別腹だと言ってたいやきを買い、歩きながら食べていたスーさんは元気にやっているかしら? 僕はあのときスーさんと一緒に食べたたいやきのほうが、どちらかというとしゃぶしゃぶよりも強く印象に残っていたりするんですけど。
弟夫婦がごちそうしてくれた、名前は忘れたけれどもどこかの有名なしゃぶしゃぶ屋さんからわざわざ取り寄せたというこのしゃぶしゃぶは、大変おいしかった。お客さんが来たときはいつもこのしゃぶしゃぶを食べるのだと弟は言っていた。子どもの頃はカロリーメイトがごちそうだと思いこんでいた弟だというのに、いつのまにか立派になってしまったものだ。僕は今でもカロリーメイトがごちそうという人生を歩んでいる。
弟の奥さんのお腹の中には赤ちゃんが入っていて、来月生まれてくることになっている。生まれる前からもう「こうちゃん」という名前をつけられたその赤ちゃんは、目方が今でもすでに3000グラムあるのだという。4000グラムまで育ったら帝王切開をするのだという。弟の奥さんはお腹の赤ちゃんがしゃっくりをすると「あ、今しゃっくりしてる」ということがわかるのだといっていた。
弟の奥さんは僕たちの両親や祖母のことをすごく評価していて、特に祖母のことは「おばあちゃんおもしろい!」と大絶賛で、あのおばあちゃんは絶対テレビに出るべきだ、と言っていた。うちの祖母と会ってその話を聞いているだけで、笑いすぎて腹痛を起こし涙を流すのだという。そう言われてみれば僕たちの祖母はたしかにおもしろいのかもしれない。しかし僕にとってはそのおもしろい祖母が標準であったというか、生まれてから十八歳で家を出るまで毎日あの祖母と顔を合わせていたので、そのおもしろさを特に意識せずに生きていた。だから第三者からそのおもしろさを指摘されて初めて祖母のおもしろさを意識できるようになったみたいなふしがある。祖母のおもしろさだけでなく、うちの母の明るさやうちの父のオヤジギャグのレベルの高さなどということも弟の奥さんは評価していて、そういうふうに自分の家族のことを他者が評価するのを聞くのはなんと新鮮な発見なことだろうか! と、たまげた。
自分にとってあたりまえなことは、ほかの人にとってはあたりまえじゃないことなのだ、ということは実はあたりまえなことなのだけれども、そのあたりまえなことはあまりにあたりまえすぎるのでついつい気づきそびれてしまう。だからその気づきそびれていたことを人から指摘されると、新しい視点を投げこまれたようで新鮮な驚きを感じて興奮する(俺のオトウのオヤジギャグってそんなにすごいものだったのか!!)。
弟とその奥さんとは趣味も全然違うし、性格も全然違う。食べるものの好みも違うし、着る服についての考え方も違う(弟は保温性の低い服を重ね着するけど、弟の奥さんは保温性の高い服で薄着をするとか)。それまで積み重ねて来た生活のしかたや考え方が違う。普段の生活なんていうのは、自分にとってあまりにあたりまえなことなので、そのあたりまえな生活を客観的に見直すのはすごく難しいことなんだと思うんだけど、自分の生活とは違う生活を送って来た他者と一緒に暮らすことであらためて自分にとってあたりまえだった生活を見なおすことができるんじゃないかしら。そういうふうに生活についての新鮮な視点を与えられるということが、結婚生活の醍醐味なのかもしれない、ということを弟と奥さんがしゃべるのを見ていて思った。「なんかあいつとは全然合わないからだめだ」というのじゃなくて、「そんな考え方がこの世に存在するのか! すげえおもしれえじゃんかさ!」つって異質な他者に感動しつつ結婚生活を送るというのが、おもしろい人生の生き方のような気がしなくもないなあと、まだ結婚生活を知らない僕は思ってみたりする。
「え! これってカットバンじゃないの? え? サビオって呼ぶの? すげえ! なに? サビオって? なんでサビオなの? すげえすげえ!」みたいな。
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今日の日記とは関係ないですが。
王様の演奏で「ルーシーはダイヤを持って空の上」