テレビの向こう側にいる人たちに全部つつぬけなんです

 訂正。前回書いた記事の写真のお人形の名前はポッコちゃんじゃなくて、ピッポちゃんでした。すいません。

 この連休は群馬県の両親の家に帰って来たのだったが、祖母がテレビと会話をする人になってしまっていた、ということにまず驚かされた。母に訊くと、今年の4月頃からこんなふうになっていたのだ、ということだったけれど、僕はちっとも知らなかった。
 祖母の部屋から話し声がする。あれ? 前の家のおばさんあたりがお茶でも飲みに来ているのかな? なんて思ったのだけど、良く聞いてみると話し声は祖母ひとりの声だけだ。妙だな、と思いながらしばらく聞いていると、ああ、そうか、テレビを見ながら感想をつぶやいているのか、と納得しかけるも、それにしては祖母の話し声が途切れずにずっと続いているのがおかしい。前々から、祖母は一人でテレビを見ながら「あれ、やだよ」なんていいながら爆笑していたりしたのだったけど、今回は祖母の声がまるで誰かと会話をしているみたいに聞こえる。
 で、僕が娘を連れて祖母の部屋に行ってみると、祖母はぱちんとテレビを消して、こういうことを言う。おめえなんかが来てるのが向こうの氏に見えたら「おばさん、この人が一番大きい孫なんかい?」って訊かれるだろ? 向こうからはこっちのことがみんな見えてるんだから、だから、消したから、もう大丈夫だ、消してれば向こうの氏には見えねえから。みたいなことを言う。意味がわからない。どういうことなの? と良く話を聞いてみると、祖母はテレビのこちら側のことがテレビの向こう側から見られている、と本気で信じているらしい。おばあちゃん! テレビの見すぎでとうとうおかしくなっちゃったのか! と背筋がぞくっと寒くなった。
「おばさん、おばさん、って俺に話しかけてくる」とか、「こうやって(と両手をふる仕草をして)俺に手をふって来る」とか、そんな話を平気な顔で僕に話すんだけど、その平気さが怖い。「こんな話をしても信じてもらえるかどうか分かんないけど……」みたいな、ためらいとか照れとかがなくて、さも当然のことのように話して来る。
 最近ではテレビの中の人がさかんに祖母に寝台を買って欲しい、と頼んで来るのだそうだ。別に欲しくもねんだけど、金がねえわけじゃねえし、買ってやったら向こうの氏がうれしがるだんべ? なんて言っている。ジャパネットみたいな通販の映像を見すぎたせいなのか? だけど、通販ではいろんな物を買うように命令してくるはずで、それはベッドに限った話じゃなくて、時計だのコエンザイムだのもあるはずで、だのに祖母はとにかくベッドを買いたがっているのが妙だ。いや、買いたがっているというか、買いたくないけど買わずにはいられない、と思っているのか。いや、本当はベッドが欲しいから、テレビから受け取る情報をベッドに結びつけて考えてしまうのか。
 消していたテレビを祖母はまたつけた。「おめえたち、ちょっと端っこ行ってろ。そこにいりゃあ向こうから見えねえから」と、僕と僕の娘をテレビの正面からはずれた位置に置いておいて、そして群馬テレビで延々と放送しているコエンザイムの宣伝をじーっと見ている。テレビには「膝が痛かったのがこれのおかげで……」と喜んでいるお婆さんが映っていて、祖母は「ほれ見ろ。あのおばあも買ってやったんだ」「買ってやると向こうの氏がうんと嬉しがるんだよ」なんて言っている。
 祖母はテレビ以外のことでは以前と変わらずまともなことをしゃべっていて、だからボケているというわけでもなさそうで、だけどテレビから始まってこれからだんだん他の日常のことにまでおかしな言動が広がって行くのか、その始まりが始まったということなのだろうか。
 祖母はほとんど一日中テレビを見ていて、夜もテレビを見ながら眠ってしまうから夜中もテレビがついている。友達はほとんど死んでしまっているし(祖母は今年91歳になった)、山奥なので買い物をしに出かけられるような店もなく、散歩なんかしてもなんにもおもしろいことなんてないし、祖母は一日中座ってテレビを見ている以外にすることがない。テレビを観ることしか、人生ですることが残っていない。
 テレビなんて、世の中のほんの一部のことをテレビ側に都合の良いように編集して流しているだけであって、テレビこそが世界を映してくれるなんて考えるのはとんでもない思い違いで、テレビの外にこそ人生の時間はあるはずだ、なんて言うのは簡単なことだけど、でも、祖母にとってはテレビの外にある世界は山に囲まれた小さな集落で、そこで祖母はどんな刺激を日常のささえにして生きることができるのか。刺激なんて何もない。庭に落ちている栗を拾うだけ、というそんな生活。
 大阪だか東京だかで殺人事件があったとか、全国のお土産の名前とか、歴代総理大臣のフルネームとか、高速道路のサービスエリアのうまい食べ物とか、そんなことは祖母の人生に少しも関係のない情報のはずで、祖母はしかし、何十年もテレビを見続ける生活を続けることで、自分の人生に関係のないことを人生の中心に置いて生きるようになってしまっていた。だけど、じゃあ、祖母の人生にとって本当に必要な情報とはいったいなんなんだろう? 
 いや、情報を摂取するためだけにテレビを見るわけではないのか。テレビから受け取る情報は実はどうでも良くて、祖母から見たら、テレビはコミュニケーションをとる相手なわけか。テレビを見ながら、テレビの映像や音によって呼び起こされた古い記憶を反芻して、それを言葉にしてテレビに向かって投げかける、というふうにして、祖母はテレビの前で自分の人生をもう一度生きなおしている。などと考えてしまっては好意的すぎるのか。いや、好意的どうこうというよりも、まとはずれな考えかもしれない。だって、テレビの向こうにいる嵐の櫻井君が自分のことを見ていて自分に向けて手をふってくれる、なんていう考えは人生の反芻とかとは無関係だもの。
 祖母は一日中テレビを見続ける人生ではなくて、もっと別の人生を送ることもできたはずだし、そうするべきだったんじゃないか、などとは、僕には言う権利がないのだろう。それは祖母の人生であって僕の人生じゃないんだから。祖母はテレビを見続ける人生というのを自分で選んだのだろうから、他人が文句を言えるものではない。いや、しかし祖母は本当にそれを自分で選んだのか? 他に何か選択肢があったのか? たとえば僕の母方の祖父はずっと書道をやっていて暇さえあれば書を書いていたとか、軽トラに乗って自分の住む地域に散らばる神社仏閣を片っ端から訪問して写真に収めてアルバムをつくったとか、そんな風に生きて死んで行ったのだけど、祖母にはそんな選択肢があったのか? そもそも祖母には選ぶことのできる人生がなかったから、テレビを見続けるしかなかった、という風にも思える。
 しかし、とにかく体が丈夫なのだから、その丈夫な体を使って人生をもっと楽しむことだってできたのじゃないか? いやいや、だからそれは他人が口を出すことじゃないんだ、それに祖母はテレビと会話をすることで祖母なりに人生を楽しんでいるのだからそれでいいのだ、僕なんかがとやかく言える筋合いなんてないんだ。とか考えて、なんとか納得しようとするのだけれど、やっぱり僕は納得がいかないみたいだ。
 本も読まないし音楽も聴かない、出かける場所もない、という山奥に暮らす人が少しでもましな人生を送ろうと思えばテレビを見続ける以外に選択肢がないのか? あるいは、よっぽど気をつけて若い頃から老後の生き方を考えておかないと、選択肢がテレビしかない老後になってしまうのか?