群馬に帰ったときのことなど

青春18きっぷで群馬に帰る電車のなかでずっと小島信夫の『寓話』を読んでいた。10時間もあるのだからきっとかなり読めるだろうとおもっていたんだけど、結局半分までしか読めなかった。ずいぶん居眠りもしたし。静岡あたりでつり革につかまって『寓話』を立ち読みしていたら、前に座っているおじさんに声をかけられた。そのおじさんは小島信夫が高校で英語を教えていたときの生徒さんだったのだという! 小島信夫は戦後しばらく高校で英語を教えていて、そのあと明治大学にうつって、小説を書きながら大学教授をしていたのだった。明治大学では北野武に英語を教えたりしていたのだった。その小島信夫に実際に英語をならったというおじさんが「なつかしい」といってぼくに声をかけて来たのだった。

群馬に帰省して、夜の涼しさにたまげた。庭ではいろんな虫がリーリーとないていて、秋のようだ。そういえばぼくが高校三年生のとき、夏休みに勉強部屋に引きこもって受験勉強をしていたときも、夜になるとこんなふうに虫が鳴いていたんじゃなかったか。
おばあの話を聞く。おばあが結婚した人は二十六歳で死んだのだった。ぼくのおじいだけれども、二十六歳はいまのぼくよりも若いので、おじいと呼ぶのは呼びにくいのかというとそうでもなくて、ぼくは二十六歳で死んだ会ったこともないおじいをイメージするとき、二十六歳の青年をイメージしつつ、同時に七十歳とかの老人もなんとなくイメージしているようで、だからおじいと呼ぶことにあまり抵抗がない。それはもしかしたら「おじい」という言葉によっておじい的なイメージが発生したということなのかもしれない。おじいのイメージがあるからおじいと呼ぶのではなくて、おじいと呼ぶからおじいのイメージが出て来るのじゃないか。
で、若いおじいが若いおばあに話した思い出ばなしをぼくは年取ったおばあから聞いて、聞きながら記憶について考えた。おじいが戦争をしに中国に行ったときに、以前働いていた会社の同僚とでくわしてひどく懐かしがった、という話をぼくはおばあから聞いたのだけれども、今ではその伝聞の記憶がぼくの記憶みたいにしてぼくの頭の中に入っている。記憶っていうのは人が自分の頭の中だけで抱えているものじゃなくて、もっとどんどん外にしみ出して広がって行くものなのかもしれないな、とか、そんなことを考えた。
おじいのお墓がある裏の山に登ってみた。あたらしく広い道ができかけていて、その道をあるいてみると、この山に思いのほかたくさんお墓があったのだということがわかって興奮した。ぼくのうちのお墓は山のてっぺんにある。ぼくは南側からてっぺんに向かう道を登ってお墓に行っていたんだけど、新しい道は山の西側からてっぺんに登るようになっていて、この西の道をあるくと、道にそっていくつもお墓がある。そうか、この山にはこんなにも大勢の死者が埋葬されているのか! この山は死者のため山だったのか! お墓はだいたい南を向いていて、あたらしい道はそのお墓たちの北を通る。だからあたらしい道からみるとお墓の裏側ばかりが目に入ることになる。なんだか人のうしろから近づいて行くみたいな、ちょっとうしろめたいような、ちょっとずるいことをしているような、そんな気分になる。
新しい道のせいで眺めがすごく良くなっていて、ぼくは自分が生まれ育った場所がこんなにも田んぼや畑に囲まれた田舎だったのかと思って、ちょっと感動した。たいらなところなんてなくて、ゆるやかに盛りあがった丘みたいなところに畑が広がっていて、その畑の中を道路がつっきっている。丘の向こうには山が見えて、山の中腹に人の住む家がちょこちょこと張りついている。あの家たちのどれかにはぼくの同級生だった人らが今でも住んでいるんだろうと思う。



*今朝の夢
レストランのようなところでS子さんと待ち合わせをしている。待ち合わせのはずなのにぼくもS子さんもすでにそのレストランにいて、ぼくはホワイトソースのスパゲティーみたいなものをひとりで食べていて、ちょっと離れたテーブルにいるS子さんはだれか男の人と打ち合わせらしきことをしている。やっと待ち合わせの時間になり、そろそろだよとぼくはS子さんに目配せをして、自分が食べたスパゲティーの勘定を払いに行く。しかしレジには店員がいない。厨房をのぞいてみるとお店の人はみんな大いそがしである。やっと人を捕まえて一万円札を渡すと、「あれ? うちは会計は先払いなんですけど」と言われる。そう言えば料理が来たときにお金を払ったような気もする。あれ? もう払ったんだっけか? と考えているうちにお店のひとはまたどこかに行ってしまった。ぼくが渡した一万円札はレジスターのそばにほったらかしになっている。レジスターは洗い場のわきに置いてあって、洗い場ではたくさんの人がお皿を洗っている。店内をふり返りS子さんはどこにいるだろうと探すのだけれど、あんまり人がたくさんいるので、ぼくにはS子さんを確認することができない。ぼくは焦って、洗い場の人たちに声をかける。その一万円札はぼくのだ! ぼくに返してくれ! しかし洗い場はあまりにいそがしいので、だれもぼくの声を聞いてくれない。もしかしたら聞こえているのに聞こえないふりをしているのかもしれない。ぼくはS子さんが打ち合わせをすると言って話し合っていた男のことが気になる。S子さんはいま、あの男とたのしくおしゃべりしているのだろうか? 早く行かなければまずいことになるのではないか? 待ち合わせの時間はとうにすぎているのだ! やっと洗い場の人がぼくに気づき、洗剤でびしょびしょになった手でぼくの一万円札を返してくれる。が、よく見るとそれは八千円札であった。ぼくがわたしたのは一万円札だったはずだ! といって八千円札を突き返すと、洗い場の人はうさんくさそうな目でぼくをみて、またレジからお金をとり、今度は二枚お札をぼくにわたす。八千円札と、千三十円札。ちょっと足りないけれど、そんなことにこだわっていてはS子さんをさらに待たせることになってしまう。これ以上待たせたらとりかえしのつかないことになるだろうということがぼくにはわかるので、ぼくは八千円札と千三十円札をつかんでS子さんのいるテーブルに行こうとする。けれども、レストランは満員で、どこにS子さんがいるのかがわからない。そうだ、S子さんはもう外に出たのかもしれない、そう思ってぼくはレストランの階段をかけ上がる(このレストランは地下にあったのだ)のだけれど、階段のおどりばまで上がって来てみると、その先の階段は下りの階段だった。またお店に逆戻りである。ぼくはいよいよ焦る。お店中を駆け回り、なんとか地上に出られる階段をさがそうとする。次に見つけた階段も地上に出られる階段ではなかった。しかし踊り場にはしごがかかっている。これを登ってみよう! がむしゃらにはしごをよじのぼって行くと、思った通り地上に出ることができた。S子さん、待たせたね! けれども店の前でぼくをまっている人は誰もいないのだ。