映画館でしゃべるおじさんについて

(昨日のつづき)いや、おじさんが映画を一緒にみている自分の妻と時間を共有している感をだすために「バターや」と言うのだなどという考えは、きっと違うのだろう。映画館で他の人の迷惑も考えずにしゃべってしまうおじさんが、そんなに奥さんのことを大事に思っているのだとは考えにくいじゃないか。
あのおじさんの言葉は、一緒に映画をみている相手をみくだすための言葉だったのじゃないか。「おれはこの場面の意味が良くわかるぞ、おまえは馬鹿だからわからないだろうけれども、そんなおまえよりも頭のいいおれはこの映画のこの場面が死ぬほど良くわかる。この場面はバターを扱っている場面なのだ。おまえは馬鹿だからそんなこともわからないのだろう。おれは誰よりもするどい頭をもっているからな。この映画館にいる誰よりもおれはこの映画がわかるのだぞ。どうだ、おれが言ったとおりバターじゃないか。バター以外にあり得ると思うか? おれはバター以外にありえないということが誰よりも速くピンときたのだ。だからおれはバターがスクリーンに映った瞬間に『バターや』と言ったのだ。おれより速く『バターや』と言ったやつはひとりもいないじゃないか。どうだ、おれがこの中で一番あたまがいいのだ。おれが一番天才だ。この映画はまあよくできているが、おれの頭の良さにはかなわないのだ。おれはスクリーンにバターが写るよりもずっと前からここでバターが出て来ることがわかっていたのだ、生まれたときからわかっていたのだ、いや、生まれる前からわかっていた、わかっていたのだが、言わずにずっとがまんしていたのだ。だからバターが映し出された瞬間に『バターや』と言うことができたのだ」ということを、あのおじさんは自分の奥さんだけでなくまわりにいる人にむかって言っていたのではないか。
いや、しかしここまで言ってしまうと、これはちょっとおおげさで意地の悪い見かたかもしんない。