重曹

南極料理人』で、だれかが裸のまま外に閉め出されちゃう場面をみながらぼくは、「あ、これであの人がこごえ死んで、それであの人たちはまずいことになってしまうのではないか」と思ったり、あるいは誰かがバターを食べている場面をみて、「あ、このバターがもとであの人は病気になって、それであの人たちはまずいことになってしまうのではないか」と思ったりした。これは「映画とはこういうものだ」という先入観みたいなものがぼくの中にあるからなのではないか。なんか、「こうゆう原因があってそれがこうゆう筋道をたどってこうなった」という物語というかストーリーというか、そういうものを無意識に映画に期待しちゃってるんだろうなと思う。だから、映画をみながらついつい映画にありそうな展開を予測してしまう。けど、そんなみかたは良い映画のみかたじゃないんじゃないか。そんなふうに映画をみていては、けっきょく物語を説明するだけのものとしてしか映画をみていないということになってしまう。物語と関係のないものをいっぱいみることが映画のほんとのたのしいところなのじゃないかしら。
映画に限らず、なんでも物語にして見てしまうというのは、今の人には良くあることなんじゃないかと思う。物語にするといろんなことが理解しやすくなって楽になるっぽい気がする。よく人はトラウマということをいうけれども、トラウマというのも物語なんだろうな。小さい頃こんなことがあったからわたしは今こうなっているのだと、そういうふうに原因と結果がはっきりしていて、その筋道を自分がちゃんと把握しているんだみたいなことを思えば、人はわりと安心して生活してゆけるんじゃないかしら。けれども、現実はほんとはもっといりくんでいて複雑で良くわからなくて、原因とか結果とかを簡単に言えるようなものじゃないだろうし、だからこそその良くわからないことの不安を解消するために人は物語を求めちゃうのかもしれないんだけれども、でも、そんなかんたんに何でもかんでも物語にしちゃだめなんじゃないかと最近ぼくは思っている。物語にすることで見えなくなっちゃうことがきっとあるはずで、そうゆう物語からはみ出すものをもっと見なくちゃだめなんじゃないか。物語というのはあらすじに要約できるけど、そういうあらすじにできないものこそが本当におもしろいものなのじゃないかと思う。

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こないだS子さんに手伝ってもらって台所のガスレンジの掃除をした。もう何年も掃除をせず、油がとんでも炒め物がくっついてもそのままにしてあって、ひどい状態になっていたのだけれども、重曹で磨いたらピカピカになった。重曹ってすごい!

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ところで茂木健一郎はテレビゲームのことを、自分であっちに行ってみようとか言ってコントロールできちゃう夢みたいなものじゃないか、みたいなことを『脳と仮想』に書いていて、そういうのを読むとなるほどなーと思う。