餅なげ

このごろ朝のみそ汁がしみじみとうまくて、みそ汁の最初の一口を飲むと、「ああ、俺はこの一杯のために生きているのだ」と思わずにいられない。先週から毎朝七時に起きるようになった。七時に起きて散歩して八時から朝ご飯である。登ったばかりの薄くて白っぽい太陽をチラチラと見ながら涼しい空気の中をぶらぶらと歩き回って、前足の爪をガシガシとかんでいる犬を見たり、バドミントンをする小さな女の子とそのお父さんをみたり、お母さんに「いってらっしゃい」と送り出されて行くお母さんよりも大きな男子高校生を見たり、しおれてしまったキンモクセイの花を見たりして、そのあとでその日初めての食べ物であるみそ汁を飲む。みそ汁を飲んで納豆ご飯と焼き海苔とちりめんじゃことなすの漬け物を食べる。ああ、朝ご飯がこんなにもうまいものだったとは!
朝ご飯がうまいと、その日の朝はすげえ快適で、九時から十一時まで二時間台本を書き、それから掃除をしてみたり洗濯をしてみたり買い物に行ってみたりしたあとでお昼になり、お昼ご飯を食べて仕事に行く。ずっとこのリズムで生活して行けたら、書き物もだいぶはかどるのだな、と思う。一日に二時間書くことができれば、演劇の台本が三分ぶんくらいは書ける。一日に三分ぶん書いて三十日間続ければ、九十分の演劇の台本がひとつ書けてしまうのだ。
そういうわけで台本の書き直しは順調に進み、そろそろ終わりが見えて来た。一度書き上げた『どどめジャム(仮題)』は、書き直しているうちに全然違う話になってしまった。なぜか劇中で登場人物たちがモンゴル相撲をとるようになってしまった。なぜか劇中で百年の時間が流れるようになってしまった(第一稿は劇中で二、三時間しか時間が流れなかったのに!)。なぜか七五三太の娘が登場するようになってしまった。七五三太の母親も登場するようになってしまった。七五三太がお爺さんになったり小学生になったりするようになってしまった。なぜかそろばんをするシーンなどができてしまった。書いている自分でも次の三分に何が起こるのか予想のつかない台本になってしまった。

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ローリング・ストーンズの歌に、「貧乏なうちの子ができることといったら、ロックンロール・バンドで歌うことくらいで、眠たいロンドンの街には、暴徒の居場所なんかないんだぜい」という歌詞の歌があるのだけれども、僕が生まれ育った群馬の田舎では、子どもの楽しみと言えば餅なげくらいのものだった。ローリング・ストーンズ風に言えば、「田舎のうちの子ができることといったら、もちなげで餅を拾うことくらいで、眠たい群馬の村では、ロックンローラーの居場所なんかないんだぜい」ということになる。