群馬の昔話がおもしろい

このごろは群馬の昔話を読むのがおもしろくて、寝る間も惜しんで読んでしまう。何がおもしろいって、やっぱり語り口がおもしろくて、例えば、
「昔々あるところに、お爺さんとお婆さんがすんでいました」
などというふうにちゃんとしたことばで書かれている昔話はおもしろさがあまり感じられず、群馬の老人の語り口をそのまま文字にしてしまったような昔話が、夜中に爆笑してしまうほどおもしろい。例えば次のようなもの。
「あれだっちゅう、まあむかしむかしあるげだあ。おじいとおばあが、あるげだあ。まあそれがはじまりだ。からかさはりのポンタさんがいるだそうだ。それで、まあその、あるていどその、せんせいちゅうのかさーはる、せんもんらしいだあ。うー、せんせいっちのかさーはってそのう、はってそのう、にわいっぺぇほすだあねぇ。それでその、いっぺぇにわへ、はってほして、そのまあ、ある校長先生のかさー、とくべついいじゃのめのかさだからって、やねのうえーほしたらしいだね。それがその、でけぇゆうだちがしてきて、そのまあ、ゆうだちがしてきたから、その、かさーとりこむらしいだ。それでその、とりこんだところが、その、いちばんいい校長先生のかさが、やねのうえーあるから、その、それーわすれていてぇて、それーとりにいったらしいだねぇ、やねのうえー。そうしたりゃあ、その、おおかぜがふいてきて、かさーつかまったところが、その、天へふきあげられたちゅうわけだーねぇ。・・・(後略)」(「傘屋の天昇り」『日本昔話通観--第8巻 栃木・群馬』より)。
「あれだっちゅう」とか「そのう」とか「あるていどその」なんていうのは明らかに不要な言葉で、「うー」にいたってはもう言葉になってなくて、ただのうなり声である。そんなものはノイズである。けど、そのノイズを取り払ってしまって「むかしむかしあるところに、から傘はりのポンタさんが住んでいました」なんてしてしまったのでは、昔話はちっともおもしろくなくなってしまうのだ。
この「傘屋の天昇り」は後半どんどん言葉がわからなくなって行って(ひらがなばっかりだし)、もう全然何の話をしているのか通じなくなってしまうのだけれども、その意味の分からなさまでもおもしろく感じてしまう。正しい日本語だとか、意味の分かる文章だとかよりも、語り口がどれだけオリジナルかということの方がおもしろいという場合もあるのだなあと思う。