カメラが3倍

連休は自宅で結婚披露飲み会を二回して、それから群馬の両親が泊まりにきて、それで結婚をした両家の親族の食事会というのをして、そうしたら熱が39度くらいも出て寝こんでしまい、きのうあたりはごろごろと寝そべってすごした。
中学生のときにつかった国語便覧が押し入れから出てきて、これをパラパラと眺めていると意外とおもしろい。ぼくは大学受験のときに英文学科に行くか国文学科に行くかで少しだけ迷ったんだけど、古文の読み方が良くわからなかったので英文学科を選んだのだった。だけどおっさんになってみると日本の古典がやけにおもしろく感じる。たとえば万葉集大津皇子の歌。
あしひきの山のしづくに妹待つとわれ立ち濡れぬ山のしづくに
(あなたをまとうとしてたたずんでいて、私は、山の木々からしたたるしずくにすっかり濡れてしまった)
これに答えた石川郎女の歌。
吾を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくに成らましものを
(私を待つためにあなたが濡れたという山のしずくに、私がなれるものならばよかったのに)
しずくになりたい、というのがいいですね。
なんか似たような感じの歌詞のロックの歌があったはず。君が着るTシャツになりたい、君がつける下着になりたい、とかいう感じの。ちょっと違うか。
松尾芭蕉が歩いた道順とかも便覧には載っていて、こんなのを縁側でねそべって眺めていると時間がゆるゆると過ぎて行ってなんともいえないいい気持ちで、もう、こんな老後みたいなことでいいのだろうかとちょっと心配になる。
世の中にたいする興味がどんどん薄れて来ていて、今どんなニュースが熱いのか、東日本がどんなことになっているのか、世間ではどんな映画をやっているのか、どんな演劇がおもしろいのか、どんな本が出たか、どんなCDがどんなか、そんないろんなことがどうでもよくなりかけている。ツイッターも十日ほどもみないでいるうちに、いつのまにかつぶやきたちに目を通すのがおっくうになってしまった。ただひたすら老後のような時間をすごす毎日。
結婚をして得なのは、いろんな人からいろんなものをもらえるということだったりもするけれど、それとは別に、いつの間にか持ち物が2倍に増えているというお得感もある。たとえばうちにあるデジカメの数は2倍じゃなくて3倍になった。35ミリの一眼レフの数も3倍になった。そんなにあってもつかいきれないけどたとえば僕のもってるデジカメは色がぼやぼやだけど、ヨメのデジカメを使うと庭にさくツツジがこんなにきれいに撮れる! とか。

上、俺のデジカメ。下、ヨメのデジカメ。

そうやって庭のツツジの写真をとったり、キュウリの苗を買って来てヨメが庭に植えているのを見たり、ヨメが料理してくれたタイと大根の煮たのを食べたりとか、そんなことをしつつ縁側でごろごろしていると、ほんと世の中のことがどこか遠いところのことみたいに感じられてしまい、なんだかこれはやばいのかもしれない。ネット廃人とかいうことを聞くけど、今の私は縁側廃人になりかけているのじゃないか。
もっとなにかせねば、なにかしたい、なにかしたほうがいい。そう思っているところに弟から電話がかかって来て「結婚祝いに欲しい物があればなんでもなにか記念になるものを」というのでつい勢いで「Wii」と答えてしまい、今はWiiの到着待ち。しかしWiiで少し体でも動かして何かした気になろうという考えがそもそもだめなのじゃないか。
わっしょいハウスは東京でがんばっているし、ノーバディーズのリーダーはフランスでがんばっているし、欄干スタイルの演出家は和知でがんばっているし、ああ、俺もなにか、とか思うんだけど、今日も天気がいいので縁側でごろごろと寝そべって国語便覧を眺める。