フィクションってなんだろう?

演劇をはじめたころは、戯曲を書きはじめたころは、人を感動させることのできるものが良い演劇なのだろうと漠然と考えていた。フィクションとは、人を感動させて泣かせるためにつくるものなのだろうな、という考えをほとんど疑わずに演劇作品をつくっていたわけだけれども、でも、考えてみれば、ある作品の良さはその作品が人にあたえる感動の多さに比例するというその考えはどこから来たのだろう。学校で教えられたのだろうか。テレビが教えてくれたのか。なんとなくいつのまにかそれはぼくの頭の中にあった。
そういうわけで、ぼくはけっこう長いあいだ感傷的な話を書いたりしていたのだけれど、どうも人を感動させることがフィクションの役目なんだ、というわけではないらしいよ、ということがだんだんに分かって来た。フィクションとか芸術とかいうものは、いま主流になっている考えかた、いま主流になっているものの見かた、いま主流になっている感じかた、などとは別のものを「じつはこういうものもあるんですよ」と、人に見せるためにあるのじゃないか。「人間ってこういうものですよね」とか、「世の中ってこういうものですよね」っていう、多数の人が共有している空気みたいなものに対して、「みなさんそのように思い込んでいますけれども、実は人間や世の中って、こういう別のありかたもあるんですよ」と、新しいものを見せる、というのがフィクションなんじゃないか。
災害がおこったからといって災害をあつかう戯曲を書く、などということをしてしまえば、それはもう、いますでに存在している空気のなかで作品をつくってしまうことになるわけで、その先にあるもの、いまここにないものを作り出すことができない。
いやいや、いまは電力にたよる生活が主流ですから、電力にたよらない世の中というものをフィクションでつくってみました、これって反原発でしょう? 反主流でしょう? というフィクションもつくれるとは思うけど、でもそれはちょっとちがう気がする。それではいまの空気と同じ土俵ですもうをとっていることになってしまう。あらかじめ誰かが用意した土俵に「ほいほい」と上がってしまうことになる(この誰かとは誰のことだろう? 誰というわけでもなく、大勢でやるこっくりさんみたいなもので、誰が動かしているというわけでもないのだけれども、なんとなく動いてしまう十円玉、というのがこの誰かのイメージに合うかも)。そうじゃなくて、災害や地震原発や、なんやかやとは別の土俵ですもうをとらなければ。相撲をしている横で魚釣りをするとか、相撲をしている横でミシンでワンピースをつくるとか、たとえていえばそういうことだ。いや、よくわからないたとえだけれども。
いま存在している世の中の空気とか、大多数の意見とかとは別のものをつくるというのがフィクションなのだから、フィクションとは気持ちいいものであるはずがなく、どこかしっくりこない異質なものであるはずで、異質なものを見ても人はなかなか感動するところまで行かず、まずは違和感ばかりを感じてしまうのかもしれない。フィクションとは感動するものではない。
でも、感動するフィクションだってあるでしょう? っていうか、フィクションなんて感動するものばっかりでしょう? 「江」だって「おひさま」だって「マルモのおきて」だって。しかしそれはいま、すでに主流になっている考えかたやものの見かたに沿った作品だから、感動できるのじゃないかしら。
それって悪いことですか? 感動できるドラマは悪いんですか? 
いや、悪くない。悪くないけど、芸術ではないのかもしれない。
別に芸術である必要なんてないんじゃないですか。っていうか、テレビでやるのが芸術ばかりだったら、それは逆にすごいストレスじゃないですか。
それはそうだな。いや、だから、そういうのはテレビが担当してくれているから、ぼくはもっと他のフィクションをつくらなくちゃいかんぞ、ということがいいたい。
たとえば、ちょっと話がとぶけれど、岡本太郎にとぶけれど、今年は生誕100周年とかで、岡本太郎がもりあがっているのでとぶけれど、岡本太郎が出て来たころというのは、太陽の塔の変な顔とか、ああいったものはだいぶ異質だったんじゃないかしら、と想像する。いま見ても変な顔だし、太陽の塔は。かなり変だったんじゃないかしら、当時は。でも、いまでは岡本太郎太陽の塔は世の中にとけ込んで来て、普通に「太陽の塔、知ってる知ってる。かわいーよね、太陽の塔」となっている。ということは、岡本太郎が世の中に投げこんだ異質なものにひっぱられて、人類(と書くと大げさだけども)が、太陽の塔をみて「かわいー!」と感じることのできる感性をゲットした、ということなのじゃないか。岡本太郎がいなければ、太陽の塔の変な顔をみて「かわいー」と感じる感性は人類に存在しなかった。といってもこれは岡本太郎ひとりにかぎったはなしではなくて、たとえばエルビス・プレスリーとかビートルズとかレッド・ツェッペリンがいなければ、ロックをきいて「かっこいい!」と思う感性は世の中に存在しなかったかもしれない。いや、ロックをきいて「かっこいい!」と思う感性はもともと人間のなかにあったものだと思うけれども、あまりそれに気づいている人はいなかった。そこにビートルズなんかが出て来て、人が気づいていなかったロックをいいと思う感性みたいなものを呼び起こしてくれた。
ビートルズなんて出て来たばかりのころは「あんなのはガチャガチャした騒音だ」といって白い目で見られたというし、レッド・ツェッペリンが出て来たときも「うるさい!」と言われていたというし、そのあとでパンクの人たちが来たときも「だめ!」と言われていた。「そんな音楽じゃ感動できませんよ」といわれていた。いまでは音楽もだいぶなんでもありというふうになっていて、「このバンドの人はビートルズ好きなのね」とか「ああ、ツェペリン系のバンドね」とか、「パンクだなあ」とか、ビートルズツェッペリンやパンクの人たちがつくり出したものは音楽のひとつのジャンルになっている。
芸術をやる、とか、フィクションをつくる、とか、ロックをやる、とかいうことは、それまでになかったものをつくって、人をそちらにひっぱっていくもののはずで、だから本当にひっぱる力を持っていた芸術家はひとつのジャンルを作ってしまう人なのかも。
岡本太郎が新しいものの見かたをつくったのならば、俺も岡本太郎のまねをしよう」といって作品をつくっていても、その作品は新しい方向へ人をひっぱる力を持ちえない。というのは、いまの世の中のものの見かたには岡本太郎がすでに含まれているから。そうではなくて、いま、まだ存在していないものを芸術やフィクションや、それからロックは作り出さなくてはいけない。
と、いうことをこのごろはなんとなく考えるのだけど、少し前まではやっぱりぼくも地震原発のことが気になって気になって、安易に書きかけの戯曲「はだしのこどもはにわとりだ」に盛り込もうとしていた。
のだけれども、もっと別のことを書かなければ、と思う。このどんよりと重たい空気からぬけだすような戯曲を書かねば、と思う。
のだけれども、いまの空気とはぜんぜん関係のない話を書いても、そんなものに人はリアリティーを感じることができないだろう。だから、見た人がリアリティーを感じつつ、しかもなにか新しいジャンルを作り出すような戯曲を書こうじゃないか、と思う。
のだけれども、そんなすごいことが俺にできるのか。「どっかでみたよね、こういうメタフィクション系の演劇って」という戯曲にいまのところ「はだしのこどもはにわとりだ」はなりそうで、ああ、むずかしい。むずかしいと逃げたくなる。戯曲から目をそらして逃げたくなる。逃げてしまって、戯曲を書くはずの時間をつかってこんなに長いブログを書いてしまったりする。