柿、カーネル・サンダース、新聞

 
 毎週木曜日は小学校の図書室にボランティアに行く日だ。先週の木曜日が文化の日で休みだったので、今日は二週間ぶりで図書室に行って来た。小学校ではこの図書室は図書館と呼ばれている。僕は通学路のよその家の庭にはえてる柿の木がたわわに実をつけている。柿はえらいな。枯れ木みたいな細い枝にあんなにいっぱい実をつけるのだからな、しかも色が鮮やかだ、などと感心して眺める。今年の秋は柿を良く食べている。柿なんてひとり暮らしをしていてはまず食べない。まず買わない。もらえるあてもない。結婚すると秋に柿が食えるのだなと、柿を食う生活が結婚生活ということなのだなと、通学路の柿の木を見上げて自分の人生の変化ということを考えた。
 ボランティアを始めて半年くらいたつ。僕は貸出カウンターに座ってピッピと本のバーコードにバーコードリーダーをあてて、鼻を擦りむいてる子がいれば、
 「転んだの?」
 「鉄棒から落ちた。」
 「そっかー。」
 と少しだけしゃべり、また次の子が持って来た本のバーコードをコンピュータに読み込ませる、という作業をしているだけで僕の役目はそれでいいんだ、と思っていた矢先、一緒にバランティアをしているKさんから、
 「ヒダさん、読み聞かせとか、どうですか?」
 と言われた。子どもたちをどうやったら図書館に呼べるかな、って考えたときに、毎週木曜日の朝は図書館で読み聞かせやってるよーっていうのがあれば、だんだん噂が広まって、子どもたちも来るんじゃないかと思うんですよ。というのがKさんのアイデアで、さらに、この学校で、ボランティアで男の人が読むのはめずらしいんですよ、読み聞かせのボランティアもみんなお母さんがたなんで、だからきっと、男の人が読んでくれる、っていうのは、子どもたちも新鮮で、よろこぶんじゃないかな。という。
 まず頭に浮かんだのはめんどっくせえなあ、ということで、どんないいわけをして読み聞かせをすることから逃げるか、ということを探ろうとして、頭の中のいいわけのストックをいろいろとりだして見てみているうちに、いつの間にかどの本を読もうかという、本の題名の検索に頭の中が切り替わっているのが不思議だ。面倒くさいと思いつつも思い切ってやってみたら何か新しい道が開けていくのじゃないかしらと、そんなことも思ったりしているらしい。演劇で俳優をすることもこの先にあるかもしれないから、その俳優修行に読み聞かせを。自分の子どもが生まれることもあるかもしれないから、その子どもに読み聞かせをするときのために今から稽古を。大人になると絵本を読む機会なんてなかなかないから、毎週一冊絵本を読むことで、それが何か今書きかけの戯曲のネタにつながったりもするかもしれないという戯曲のネタ探しを。新しい道が開ける、というのはつまりそういうさもしい貧乏根性のようなもので、子どもに本を読むことを楽しみたい、という純粋な楽しみはあまりピンと来ない。
 「何かヒダさんが子どものころ読んでもらっておもしろかった本とかあれば、」
 それで何があったかなと思い出そうとしてみても、急には浮かんで来ない。大学生のとき、図書館学の講義でいしいももこの名前を知って、その時期はいしいももこの本ばかりを読んでいた、ということをふと思いついて、
 「いしいももことかあるかな。」
 と探してみたけど見つからない。一緒に本棚を見ているKさんが、
 「こんな本もあるんですね。」
 といって取り上げたのはカーネル・サンダースの伝記で、ケンタッキー・フライド・チキンのカーネルおじさんがあのおなじみの白いスーツで、杖を持って、店先に立っているという写真が表紙になっている。カーネルおじさんの人形ではなく、実物のカーネルおじさんの写真だ。
 「むかしばなしなんかいいかもしれないですね。」
 「むかしばなしだったら38のところにいっぱいありますよ。」
 それで「38 風俗・民俗」の本棚の前で「こぶとりじいさん」とか「ももたろう」とか「ふるやのもり」とか、子どもの頃に何度も読んだ(というよりも読んでもらった)本にたどりついたのだった。
 「とりあえず来週やってみましょう。」
 「とりあえずやってみて、時間がたりなかったりしたら、またそのとき考えればいいですよね。」
 「まずは一回やってみて、」
 それで来週はむかしばなしを読むことに決まった。

 帰り道に自分の今までのボランティアへの取り組みを反省しつつ、柿を見上げる。Kさんは子どもたちをもっと本の世界に呼び込みたい。そう思ってボランティアをしているのに、僕はただ毎週木曜日に顔をだしてピッピとバーコードを機械に読み込ませていればそれでいいんだ、と思っていた自分がさもしい。
 「『かいけつゾロリ』ばっかり人気ですけど、他にもっとおもしろい本もあるんだよーってことを、子どもに伝えないとだめですよね」
 なんて、そんなことをKさんに向かって偉そうに口に出していたのに、行動はなんにもしていなかった自分が恥ずかしい。そんなことは給料をもらってる人間がすることで、ボランティアがする仕事じゃないぜ、と思っていた自分がさもしい。
 「さもしい」を辞書でひくと、「自分だけが得をしよう(すればいい)という気持ちの見えすいている様子だ」とある。僕の場合は「得をしよう」というよりは「楽をしよう」という感じか。
 そんなふうに柿を見ながら考えた。

 と、ここまで書いてぼーっとしてたら新聞屋さんが来た。新聞とってください、お米も三キロつけますし、ビールもサービスしますんで、という。年も近そうだし、近所付き合いだと思って、という。年内はただで放り込んでおきますんで、来年一、二、三月おねがいしますよ。付き合いだと思って。お願いしますよ。という。朝刊だけ。一ヶ月だけ。一回払いで。だめですか。3500円ぐらいたかがしれてますやん。という。読み聞かせを引き受けた勢いで新聞も引き受けてしまおうかと、
 「じゃあ、お願いします」
 とほとんど言いかけた。でも言わなかった。と思う。