銅の茶筒をなでる

 今週は、履歴書を書き、ハローワークで面接の練習をし、ハローワークで紹介してもらった仕事の面接に行き、内田クレペリン検査を受けたり、面接官の前でしどろもどろになったり、といった一週間。先週か先先週あたりは暖かい日があったのに、今週は雪が降ったりして、おおいに寒く、ガスストーブが大活躍した。

 昨日の夜、ふとんに入る前に、妻は茶筒をなでていた。寝巻き姿の妻が卓袱台の前に正座して、茶筒を手のひらの中でころがして、その表面をなでていた。それを僕は隣の部屋にしかれた布団の中から眺めていた。この茶筒は、こないだの土曜日に、妻の友達が誕生日プレゼントとして妻にくれたものだ。銅でできている。この茶筒がもらわれて家に来たときには、曇りひとつないぴかぴかの真新しい銅で、これを妻はほぼ毎日なでていた。僕も一度か二度、なでてみた。毎日少しずつなでて、3日ほどたつと、茶筒は少し曇り、色もかすかに黒ずんで来たようだ。何度もなでて、何年もたつと、この茶筒は古い10円玉みたいに、だんだん色を濃くしていくらしい。妻はそうやって銅の色を変えていくことを「育てる」といっていた。僕は布団の中から茶筒をなでる妻をみながら、この茶筒を同じようになでている僕らの孫の姿を想像してみた。
 「それは、おばあちゃんが若いとき、誕生日のプレゼントに、友達からもらったものだ」
 と、僕は隣の部屋の布団の中から声をかける。
 「もらったときはピカピカだったぞ」
 という僕は、孫を見ながら、若い頃の妻がその同じ茶筒をなでていた姿を思い出しているはずだろう。今では黒っぽく変色しているこの銅の茶筒を見ると、それがかつては顔が映るくらいぴかぴかだったのだ、ということを思い出して、ぴかぴかの茶筒を思い出せば、それをなでていた若い頃の妻のことも思い出す。この茶筒は、だから、若い妻を記憶する装置なのではないか。若い妻だけでなく、これからだんだん歳をとっていく妻が、折に触れて茶筒をなで、お茶を入れる、そのいちいちの時間を、この茶筒は記憶していくはずで、だから老人の僕がこの茶筒をみれば、僕はいろんな年齢の妻を目の前に呼び出すことができる。
 そんなことを、布団の中で考えた。