東京でわっしょいハウスを見る


 我らがわっしょいハウスが東京に行ってしまってからもう2年くらいたつ。前回の公演は見に行けなかったけれども、ネットでツイッターなどの反響を京都からこっそりチェックしていると、佐々木敦さんが絶賛していたりして、なんだかすごい評判が良いようだ。これはすごいことになっているのではないか、と気になっているところに、わっしょいハウスがアトリエヘリコプターで公演をするという話をきき、これはぜひ見に行きたい、と妻と話し合った結果、この公演に会わせて二泊三日で東京に泊まりに行くことにした。ついでに東京の観光もすることにした。
 東京ブックマークという、新幹線の往復の切符代を払えばただでホテルに一泊することができるという旅行会社のサービスがあって、これを使った。これだと新幹線はのぞみには乗れないらしく、僕らはひかりに乗って東京に向かった。途中で見た富士山は頭を雲につっこんでいた。
 ホテルで荷物を置いてまず向かったのが浅草で、ここで雷門をみたり、手ぬぐい屋さんをのぞいたりしてから、もんじゃ焼きというものを食べてみた。生まれて初めて食べた。関西の人はもんじゃ焼きの悪口をいうようなのだけれど、なかなかどうして、そんな悪いものではなく、むしろとてもおいしいものだった。このとき食べたのはチーズとアボカドの入ったもんじゃ焼きで、チーズが鉄板で焦げたのが香ばしくて良かった。
 もんじゃを食べて生ビールを飲んできもちよくなってから演芸ホールに行き、落語をきいたり、漫才をきいたり、マジックをみたり。あと三味線の演奏なんかもあった。これも初めての体験で、僕は大学生の時は東京に住んでいたのだけれども、今から思うとあの頃はぜんぜん東京を楽しんでいなかったなと、悔しいような気になる。
 とか、こんなことばかりずっと書いていても、小学生の作文みたいで(「僕はこないだの土曜日に東京に行って来ました」)、ブログを読む人にとってはどうでもいいことなんだろうな、と思うので、まずは二日目の昼に見たわっしょいハウスの感想を書こう。
 書こう、といっても、どこから書いたらいいのか。とにかくどこもかしこもおもしろい作品で、こんなにすごいのか! とびっくりしながら見ていた。一番おどろいたのが何度も泣きそうになったことで、まさかわっしょいハウスで泣くとは思っても見なかった。
 ああ、この作品を京都でわっしょいハウスと一緒に演劇をしていたショウちゃんたちに見せてやりたい。わっしょいはこんなにも立派になってるぞ、と。

 わっしょいの何が僕を泣かせようとしたのかと振り返ってみると、どうもソーリーの記憶なんじゃないか、と思う。「ああ、あのときは申し訳ないことをしたな」というソーリーの記憶というのは、それが過ぎ去った今となってはもうなかったことにできないし、償うこともできないし、取り消すこともできないし、それを思い出したときにいくら「ごめんね」と心のなかで祈るようにつぶやいても、許されるわけでもなくて、ずっと心に残り続ける。そして恐ろしいことに、ソーリーの記憶は生きている限りどんどん増え続ける。そういうソーリーの記憶が絶妙に表現されている場面に僕は泣きそうになったのかしら、と思う。自分が給食当番の白衣を持って来るのを忘れたから、自分の次の週に当番をする人は白衣を着ることができず、その人だけ変な黄色い服を着せられて、というあたりとかが、もうたまらなかった。いや、これだけ書くとなんでそんなことで泣きそうになるのか、意味がわからないと思うけど。あの作品の中でここの場面を見ると、もう、ほんとたまらなくて、歯をくいしばって涙をがまんした。
 とかいって、ソーリーだ、ソーリーだ、と書くと、なんだ、感傷的な話なのか、と思われそうだけど、わっしょいハウスの『まっすぐ帰る』は、ただただソーリーな感傷的な作品だったわけじゃなくて、笑えるところもいっぱいあって、その笑えるポイントにわっしょいハウスらしさが出ていて、これも僕は大変好きだった。わっしょいハウスらしさっていうのは、ちょっと引いたところから人の行動を見ているような、そこに含まれている自分のことも含めて客観的にひいて眺めて、その渦中の人にはおもしろさが分からないけど、遠くから見てみると実はそれっておもしろいよね、というおもしろさを発見して見せてくれる、というのがわっしょいハウスらしい笑いなのかな、となんとなく僕は思っている。
 と、ここでコンピュータの中をあさっていたら、2008年5月にわっしょいハウスの「アウトドア2」を見たときに書いた日記が出て来たので、ここにはりつけて置くことにする。
 わっしょいハウスの『アウトドア2』を僕は4回観に行ったのだけれども、何回観てもおもしろくて、たぶん今年観た演劇の中で一番おもしろかったんじゃないかと思う。
 『アウトドア2』は、浅井くんと犬飼くんがずっとアウトドアをしようという話をしているだけの演劇というかパフォーマンスで、とくに何もおこらないし、カタルシスとかも全然ないのだけれども、なぜかぐいぐいと観客を引き込む力が充満している作品で、こんなにすごい演劇というかパフォーマンスを、僕はほかに思い出せない。
 とにかくすごかった。
 いろいろとすごい場面が目白押しなのだけれども、僕が一番感動したのが、犬飼くんが「そういえば俺琵琶湖に行ったことあった」とかいって、小さい頃に彦根城に行った思い出話を始める場面で、この場面ががとにかくすごくて、僕はほとんど毎回鳥肌を立てながらこの場面に見入っていた。なんでこの場面が鳥肌がたつほどすごいのかということが僕にはよく分からなくて、それが分かりたくてたぶん僕は4回この作品を観たんじゃないかしらと思う。
 それで、4回観ていろいろ考えてみたんだけど、たぶん僕はあの場面で犬飼くんが生きてきた時間の厚さに触れて、それに感動したのじゃないかしらと、今は考えている。
 『アウトドア2』には、二人がそれぞれ自分の思い出を話すという場面がいっぱいあって、その、自分の思い出を話している人をずっと見続けているうちに、ふと、観客は、そこにいる俳優が、ただ今ここにいるだけじゃなくて、彼らが二十何年か通り抜けてきた時間を持ちながら今ここにいるのだ、ということに、はっと気づく。そのはっと気づくのが、犬飼くんが彦根城に行ったことを思い出す場面だったのじゃないかと思う。
 あの場面で、犬飼くんがじっと何かを思い出そうとするような眼をするのだけれども、そういう眼でじっと空中を眺めている人をみることで、その人がたどってきた時間がぐわっと立ち上がって、そうすると、犬飼くんが生きてきた時間の厚さが、ぐいぐいとこちらに押し寄せてくるようで、そのぶ厚い時間の存在に圧倒される。過去の時間というものは、二十年生きた人には二十年分ぎっしりと一秒もはぶかずにびっしりと二十年の時間があったわけで、そのぎっしりと分厚い時間を人は引きずりながら今を生きているのだという事実が、あの瞬間にどどーんと僕に飛びかかって来て、それに僕は感動していたのじゃないかと思う。
 いや、でも、それはこじつけかもしれない。良く考えてみるとやっぱりなぜあの場面がすごいのかということを、僕はきちんと言葉にすることができない。できないけれども、やっぱり何か時間に関係しているのだろうとは思う。
 『アウトドア2』は時間を見せる演劇なのだと思う。
 『アウトドア2』を観ている観客は、今ここで演技をしている二人の俳優を観ているんだけども、じつは「今ここ」という点の時間じゃなくて、二人が二十何年か引きずって来た時間の厚さを観ているのじゃないかしら。『アウトドア2』は、時間という目に見えないものを見せてくれる作品だったのじゃないかと僕は思っていて、そんなものすごい作品をつくっている人は、京都で演劇をつくっている人のうちには、わっしょいハウスしかいないのじゃないかと思う。演劇をつくる人のうちで、物語とか、人の内面とかを観客にみせようと考えている人は京都にいっぱいいるけれども、時間を見せる演劇をつくっているのはたぶんわっしょいハウスだけだ。
 彦根城のところがすごいと書いたけれども、彦根城のところ以外でも、『アウトドア2』には、過去の時間が立ち上がって来る瞬間がいっぱいあって、そういう瞬間がぼこぼこと数珠繋ぎに押し寄せてくる。
 浅井くんがときどき、過去の自分を再現するところがある。釣りざおを折ってしまったときの再現とか、熱が出て温泉に行けなかったときの再現とか。そういう場面がまたすごくて、ほとんどそこに過去の時間が出現したみたいな錯覚を起こす寸前くらいな気持ちに僕はなって、今の時間と過去の時間が二重に見えるようで、ぐらぐらと時間が揺すぶられるようで、そんなふうにぐらぐらと時間を揺すぶるみたいな感覚を起こさせる演劇を僕はやっぱり他に観たことがなくて、ただただ「すげえ」とうなるしかない。
 まだまだ『アウトドア2』のおもしろいところはいっぱいあるんだけど、僕はやっぱりそれを全部言葉にはできないし、あんまりほめすぎるとわっしょいハウスの二人もやりにくくなっちゃうかもしれないので、『アウトドア2』のおもしろさを語るのは、このへんでやめる。このへんでやめて風呂に入って寝ることにする。
 引用おわり。
 今回の作品ではディティールがいちいちしっかりしていて、それがくっきりと頭に浮かんで、作品で語られる空間がだんだん頭の中に広がって行く、という感覚があってそれも良かった。二階にある姉妹の部屋、堤防、川、体育館、お地蔵さん、校門、とかいろんな、演じられている場所が頭に浮かんで、姉妹やその同級生なんかが暮らしている町のイメージが、少しずつ広がって行く。
 台風のときに避難した体育館でバスケットボールのゴールの下に避難していた友だちの一家がパンを食べていて、その周りには鳥かごがいっぱいあった、あいつの家はあんなに鳥を飼っていたのか、とか、そういう、作品の筋とは直接に関係ないであろうディティールが、いちいちおもしろい。もう、その風景を想像するだけで、僕の頭の中にはそのときの体育館の空気が浮かんで来て、自分もそこに一緒に避難していたことがあるような気になってくる。
 で、こんだけ書いてくると東京観光のことを書く時間がなくなってしまったので、観光のことはまた明日書こう。