noise-poitrine2012-06-25

 その夢の中の僕は祖母の家の掘りごたつに潜り込んで仰向けになり、顔と腕とをこたつの外に出して、多分眠っていた。眠りながらも僕は自分が今祖母の家にいるということを知っている。夢の中で眠っている僕はいやな夢を見ているようだ。そのいやな夢からさめたいと思い、なんとか薄目を開けて首を右にひねると、そこには光の弱い蛍光灯に照らされた台所が青白く見える。この台所は僕の実家の台所だ。祖母の家に実家の台所が接続している、などということはありえないことだけれど夢の中では当たり前のことだ。頭の上の方に誰かの気配を感じて、僕はその気配にひどくおびえている。なんとか目をさましてこの掘りごたつから抜け出したいと思い、腕を振り回して声をあげ、助けを求めるのだけれど、体はうまく動かず、僕の声を聞いて助けに来てくれそうな人はこの祖母の家の中には誰もいない。それでも死にものぐるいでもがいていると、突然妻の僕を呼ぶ声が聞こえて、僕は目をさまし、この京都の家に戻って来たのだった。うなされる僕の声に目をさました妻が僕を呼んだ。

 国立近代美術館で井田照一の版画を見たのは前の前の週末だった。美術館に行くのはほんとに久しぶりで、前回いつ美術館にいったのかが思い出せない。そもそも、最近の僕は何か見たいものがあっても「明日予約しよう」とか「明日会期を調べよう」とか、そう思っているうちにいつの間にかそれを見に行くことがどうでも良くなってしまい、結局なにも見ずに家でゴロゴロしている、あるいは近所の上賀茂神社の手作り市などをのぞいてお茶を濁す、という日々を過ごしがちで、みんぱくでやっていた今和次郎の展示も見に行けず、それはきっとあまりよろしいことではないと思い、前の前の日曜日には井田照一の版画を見て、次の日曜日には同じ国立近代美術館の講堂で上演された映画『アルファヴィル』を見に行ったのだ。
 美術作品の実物を見ると、それをその紙の上に記録した人の体の動きが自分の体の中に再現されるような気持ちになることがある。たとえば横に線がたくさん引いてある紙を見れば、自分の腕や体が横に動く往復運動をした記憶のような物が僕の頭によみがえる。インクでつけられた足跡を見れば、自分の足の裏が冷たいインクに触れた感触が、一瞬よみがえって来る。あれは保育園の年長組に所属していたときだったか。自分の成長の記録として、足の裏にインクを塗って紙の上にそれをスタンプする、ということをした。生まれてから四年だか五年だか六年だかで私の足はここまで大きくなったのだ。しかしこの足もまだまだ私の足が本来の大きさになるための途中の過程でしかなく、保育園児の足は一日いちにちと成長していく。保育園の部屋の中には床が汚れないようにと新聞紙でも敷かれていたのだろうけど、インクを塗った足を木の床に載せると冷たくて気持ちいい。この一瞬のきもちよさを味わうために、園児たちは先生におこられることも忘れて画用紙からも新聞紙からもはずれた木の床の上に自分の足跡を記録していた。僕の足の裏を記録したあの画用紙はたぶん実家の倉庫に、あれから30年近くたった今でもしまわれている。いや、もしかしたらもう、捨ててしまったのかもしれない。僕は高校を卒業して実家を離れるときに、今まで自分が使って来た教科書や学校の図工の時間に描いた絵などをだいぶ燃やしてしまったのだから。残されていても捨てられていてもそれはしかし同じことだ。僕の足の裏にはあの時保育園の先生がすこし粘ついた冷たいインクを刷毛にたっぷりとつけ、ぺたぺたと僕の足の裏に塗ったくすぐったさ、そしてその足で触れた紙の軟らかさ、床の固さ、冷たさ、そんな感触が記録されていて、それはたとえば井田照一の版画に残された足跡を見ることでもう一度呼び起こされるものなのだから。しかしこの僕の足の裏に記録された記憶は、僕が死んだ後ではどのように呼び起こされるのか。僕の体はそこにもう存在していないのだから、きっと誰か別の人の足の裏に、この僕の記憶は再現される。それは今僕が思い返しているこの記憶と全く同じ記憶ではないのだろう。でも、そもそも今僕が思い返しているこの記憶も、どこまでが本当の自分の記憶なのかがわからない。
 足の感触といえば、昨日ユニクロで女性客がナイキのハラチを履いて買い物をしているのを見て、僕はハラチが復刻されているのを知り、猛烈に欲しくなった。何年か前に買ったハラチを僕は去年履きつぶして、靴底のゴムがべろんとはがれてしまい、しかたなく新しいスニーカーを買ったのだけれど、ああ、僕は一年待てば良かったのだ! 一年待てば新しいハラチが履けたのに。ハラチのかかとの部分の吸いついてくるような感触が忘れられない

 同じ美術館で映画を観たのは昨日のことだった。ゴダールの『アルファヴィル』。一生懸命みたのだが、どうも面白さが良くわからなかった。妻と二人で映画を観た。映画を観る前には近くの公園でパインケーキを食べたり、府立図書館で雑誌を見たり、美術館の喫茶店でコーヒーを飲んだりして、日曜日の気分を味わった。雨でもなく晴れでもなく、暑くも寒くもない6月の日曜日で、ここに出かけて来る前、午前中に我々は上賀茂神社の手作り市をのぞいて来た。ビーズのピアス、手ぬぐい、山あじさいの苗、土、ほうじ茶、そんなものを買い、帰り道に近所の農家の軒先に並べられているモロッコ豆を買い、家に帰ってマルちゃん正麺を食べ、それからバスに乗り、我々は出かけて来て、6月の日曜日ののんびりした時間を過ごし、映画を見た後は町に出て雑貨店などを冷やかしてから寿司屋に入った。妻のボーナスが出たために、パーッとうまいものを食べようというのがこの日の計画には組み込まれていて、それで入った寿司屋は妻が15年程前におじいちゃんに連れられて来たという寿司屋だった。15年前、まだ幼かったいとこは「ウニ」「ウニ」「ウニ」とウニばかり何度も注文して、それを隣に座って見ていた妻はもう子供ではなく、遠慮せずに何でも注文するということができない。おじいちゃんはもう死んでしまった。いとこも大きくなって結婚した。今こそ、自分が働いて稼いだお金で食べたい寿司を食べたいだけ食べて見せる! 僕は妻と並んで座ったカウンター席で、妻の実家でみたことのある妻のおじいちゃんの写真を思い浮かべていた。おじいちゃんはいつでも笑っている人だったと、その写真を見ながら妻のおばちゃんは言っていた。

 甘もの会に戯曲を渡してしまうと、もう次に書きたい戯曲が浮かんで来た。次はたとえばSFなんかを書いてみたい。死んでしまったおじいちゃんの一生の記憶がUSBメモリか何かにすべて記録されていて、未来の人は好きなときにおじいちゃんを呼び出して話ができる、という設定のSFとか。おじいちゃんは死んだときの80歳の姿をしていないで、30歳くらいの年格好に見えたりする。しかしUSBメモリの中で永遠に生かされ続けるおじいちゃんはどんな気分でいるものなのか。そんなことを考えたくて、最近は早川文庫のSF、たとえばグレッグ・イーガンなどを買って来ては読んでいる。
 あるいは、人が手作業で作った物からそれを作った人の体の動きを再現する機械が発明された、という設定のSFはどうか。たとえば茶碗。茶碗に書かれた模様は、ある人がある筆を使ってある時に体を運動させて描いたものだ。別の人が描けば模様は微妙に違う模様になるし、筆が違っても同じ模様にはならないだろうし、そのときの温度や湿度によってもやはり模様は変わって来る。その茶碗を機械に入れて再生ボタンを押せば、それが作られたときのそれを描いた人や道具や空気や音などが再現される。だからこの機械を使う未来の人は、茶碗を作った見知らぬ人に、茶碗を通じて会うことができる。
 この機械は、その茶碗がその茶碗になるために必要だった物を、茶碗に残された跡からすべて再現することになる。材料の砂や土から始まって、茶碗を焼き上げた釜にくべられた薪の木まで。いや、しかしこの茶碗には、この茶碗がつくられた後の記憶も記録されているではないか。茶碗が作られた後で、その茶碗を手に取り、その表面にほとんど目には見えない細かな瑕とも言えない瑕を知らず知らずにつけて来た人たち、がその茶碗を触っているときに交わしていた会話、なども今ここにあるこの茶碗がこのようになるためには必要だったはずで、それらをすべて再現するとなるとそれは膨大な人や物がそこに現れることになる。この茶碗には、茶碗の誕生から現在までの間の、その茶碗を取り巻いていた宇宙全体がその茶碗に記録されているということになう。いや、そもそもその茶碗の材料になった砂や土や塗料などは、茶碗を作る人が来るずっと前から地層に体積されたりなどして長い時間をすごして来たわけで、それをすべて再現するとなるとほとんど宇宙の再現と変わらなくなってしまう。こんなのはとても現実的とは言えない。

 今月号の「群像」には、福永信さんの戯曲が載っている。一人芝居の戯曲という設定だけど、登場人物の「長男」という人はこの戯曲の中では何もしない。ただずっとしゃべっているだけで、その話の内容も長男と少しも関係のないことのように思える。携帯電話の代わりに貝殻を使う子供、テレポーテーションする赤ん坊。こんなふうに誰かがずっとおかしな話を語る、という戯曲のあり方があるんだということはチェルフィッチュが登場したときに教えられて、それを僕はとてもおもしろいと思ったはずなのに、いざ自分が書く段になるとどうしても会話形式の戯曲を書いてしまう。いかにも自然な会話や本当らしい会話をでっちあげるという、僕がこれまでやって来たことが、どうもこのごろの僕にはうさんくさく、息苦しく感じられるようになってきた。
 誰かと言葉を交わすという会話を見せるのではなく、あるひとりがずっと誰かに言葉を投げかけ続けているような、一方通行の語りを使って、たとえば小説で「僕」や「私」が一人称で語り続けるような、そんな形式で何かつくってみたい。今の現実とは違う現実を観客の頭の中に組み立てて行く、ということをするのに、あるひとりの語り、に含まれるフィクション、伝聞や予想や想像や期待、そんなものを使って何かを表現することをしてみたい。