年末から正月にかけてあったことをいくつか書いてみる。

90歳になった祖母が、自分の畑で作ったという里芋やジャガイモを送ってくれた。里芋に目がない妻と、うまいうまいとハッスルしつつ食べる。来年もまた食べたいので、よろしくおばあちゃん。

友達を私の家に呼び、Fさんの蓄音機でSPレコードを聴く会。夜は鍋。住む地域の風景が子どもにあたえる影響についての話にさもありなんと納得。ガチャガチャした風景の中ではガチャガチャした子どもが育つらしい。それはいろんな学校にワークショップをしに行くFさんが自分の体験で学んだことだ。ゴダールがめちゃめちゃ好きだというHさんの話を聞き、ゴダールを見を見てみたくなる。次回はゴダールを見る会、というのを開催したい。

行きつけの床屋さんが入院したというのでお見舞いに行く。思ったよりも深刻だった。ベッドで読めるようにと、山下清の日記などをプレゼントした。

年賀状は今回も十枚書いた。

シャッツカマーのダンスをみに行く。ダンスは、どんな素早い動きをするときでも、体を丁寧に動かす。それは、字を書くときに丁寧に手や腕や体を動かす書道にも通じるのじゃないかと、ダンスを見ながら考える。芸術とは、どれだけ丁寧に体に向き合うことができるか、というところに胆があるのかしら。

クリスマスは、里芋と下仁田ねぎのグラタン。

年越しは妻の実家へ。四泊五日。炬燵で紅白を見て、炬燵でおせちを食べ、炬燵で駅伝を見て、炬燵でジグソーパズルをし、炬燵で本を読みながら居眠りをし、炬燵で「相棒」を見て、のんびりと過ごした。一日中炬燵にいて、そろそろ夕方かしらと時計を見上げるとまだ2時を過ぎたばかりだ。ああ、一日はこんなにも長いんだな、ちょっと散歩にでも出かけようか、そう言いながら炬燵から出ることをせず、うとうととよだれをたらしながら居眠りをする、そんな風にゆっくり時間を過ごすお正月だった。

今年の聞き初めCDは安藤明子さんのCD。

床屋さんが退院したというので、早速妻が散髪に行く、のについて行く。妻が髪を切ってもらっている間、炬燵でみかんを食べつつ、床屋さんに集まった若い人らと動物園の話や、イスタンブールの鯖サンドの話をする。帰りに道路で倒れているお爺さんと、その介抱をするお姉さんに行き会い、救急車が来るまで一緒になってお爺さんの背中をさすったり、「大丈夫ですからね」と声をかけたり。

Jちゃんが遊びに来る。カフカの家で買ったというボタンなどをお土産にくれた。ヨーロッパで演劇をした話を聞く。高そうな毛皮のコートを着ていたけど、あれはママのコートを仕立て直してもらったものらしい。

今度の戯曲は「古い日本」をテーマのひとつとしたい。ので、小泉八雲古事記を今月は読んでいる。劇中劇で古事記を演じるとかやったら楽しいかもな。

私の誕生日は毎年恒例のラザニア。35歳になった。

獺祭書房でずっと前から狙っていた『私の作家遍歴』を購入。2009年7月9日の日記にこの本を見つけたときのことが書いてある。ので、3年半くらいずっと狙っていたのだった。

「日本人の頭脳にとって、表意文字は生命観にあふれる一幅の絵なのだ。それは生きて、物をいい、身ぶりまでする」という小泉八雲の言葉を読んだりするうちに、俄然漢字に興味が出て来た。それで白川静の本を読んでみたり。今度の戯曲は漢字もテーマのひとつとしたい。魯山人は子どもの頃学校に行けなかったから、街の看板で漢字を覚えたのだという。看板に知らない漢字を見つけたら、それを地面に何度か書いてみて形を覚え、家に帰ったら新聞でその漢字を探す。その頃の新聞は、漢字にすべてよみがながふられていたから、そうやって漢字のよみかたを覚えたらしい。

ベニシアさんが同志社大学で講演をした。のを妻と聞きに行った。ああ、プラスチックってとても体に悪いものだったのねと愕然とし、家に帰るなりタッパーウェアやラップ類をゴミ箱に投げ入れたい衝動にいても立ってもいられず震える。ニュースは見ない、暗くなるから。暗いドラマは見ない、暗くなるから。というベニシアさんに私も賛成。それにしてもこう妻のあとについて行ってばかりでは、もれなく君と呼ばれてもしかたがないのではないか。しかしこれまでそれほど興味のなかったベニシアさんも、こうやって話を聞いてみると面白くてためになるのだから、これからももれなく君として、いろんな未知の場所に行っていろんな人に会ってみるのがいいのではないか。

妻の卒業した小学校行われたどんど焼きに、やはり妻と行く。絵馬やしめ縄を燃やしてもらう。一時間ほどして、火が弱まると、子どもたちは竹の先にお餅を針金でくくりつけたものを炭火に載せ、あぶる。ああ、こうやってなんか焼いて食べるのってうまいんだよな。僕も子どもの頃どんど焼でおだんごやするめをあぶって食べたっけ。子どもたちのお餅がうらやましい。我々はお餅を持って来ていない。それで、小学校の近所のお肉屋さんでコロッケやらアメリカンホットドッグを買って来て、子どもたちの後ろで食べる。子どもの一人が、油っこいものをもぐもぐと噛んでいる僕の方を向く。あの子どもの目が忘れられない。「セブンイレブン行って、ウインナー買おうか」とその子が言うのが聞こえた。あの時、あの子の中にあったはずのお餅を楽しにしていた気持ちを、僕はぶちこわしてしまったのだ。ごちそうだったはずのお餅が、おいしく食べられるはずだったお餅が、アメリカンホットドッグの前では、急になんだかつまらないものになってしまったのではないか。神聖な儀式を冒瀆してしまったのではないかという後ろめたい気持ちがずっと後を引いている。