最近ブログを書いてなかったけど、具合が悪かったわけではないんです

 お盆の帰省から京都の家に戻ってみると蝉の声が遠い。ついこの間まで、蝉は玄関前の木にとまって頭が痛くなるくらいにうるさく鳴いていたのだったが、今ではずっと遠くの方からかすかな鳴き声が聞こえて来るだけになってしまった。夜になればリーリーと鳴く虫の声が聞こえてきて、もう秋が始まっている。
 お盆の両親の家で僕は夜中になると咳が止まらず、熱を出して寝込んだりもして、すっかり心配をかけてしまった。何でも好きなものを食べなさいと、牛肉、刺身、トンカツ、天ぷらそば、ソフトクリーム、寿司、やきまんじゅう、すいか、メロン、ビール、プロポリス、コエンザイムQ10など、手当たり次第にごちそうになり、おかげで体重が50キロに増えたよ。と喜ぶのもつかの間、油断をするとすぐに48キロとかに減ってしまうので、がんばって甘いものとかとらないと。妻の弟の話では僕の今までの食生活は、プロボクサーが減量するときの食生活とそっくりだったのだそうだ。山を越えての自転車通勤も非常にカロリーを消費する。しっかり甘いものとか食べないと。
 娘は群馬でもとても愛想が良く、ニコニコ笑ってうんうんとお辞儀をしては群馬の両親たちに喜ばれていた。長いドライブをしたときは途中で泣き出してしまって、お腹でも痛いのかと心配したが、車を降りればぱたりと泣きやみ、どうやら長時間クルマに乗るのが苦手であったようだ。
 僕がまぜごはんを食べたいなどとうっかり言ったものだから、90をすぎた祖母が「老骨にむち打って」混ぜご飯を作ってくれた。祖母の家に挨拶に行ったのは14日だったか。そのときは「もうくたびれちゃってつくれないんだよ」と祖母は言い、ひやむぎだけ茹でてもらってそれでけっこう満腹して満足したのだったが、翌日の15日の夜、祖母から電話があり、混ぜご飯をつくったからとりに来い、という。このとき僕は熱を出して寝ていたんだ。今からとりになんて行けない、と母が電話にしゃべっているんだけど、それをきいた父がせっかくつくってくれたのだから、と車でとりに行ってくれた。祖母や両親の眼には、僕は小学生くらいの子供に見えているんじゃないか、とときどき思う。

 16日に京都に戻る。疲れてるし、娘の離乳食や風呂もあるしで、送り火は見なかった。送り火を見なかったのなんて京都に来てから初めてかも。京都生まれの妻は生まれて初めてかもしれない。
 17日、J子ちゃんとAちゃんが遊びに来る。桃をいただく。Aちゃんが保育園のお遊戯会で王子様が、とか妖精が、とかいう話をするので、白馬に乗った王子様を想像していたのだけれど、スジャータという妖精が牛乳を持ってダンスをするのだ、という話を聞いて、はて? と思う。王子様ってブッダのことだったのね。子供の頃、「お釈迦さま」というマンガを何度も繰り返して読んだものだったが、苦行あけのお釈迦さまが道で倒れているところに女の人が通りかかり、たまたま持っていた牛乳がゆを食べさせる、というエピソードが描かれていて、マンガに出て来る食べ物は何でも食べたくなるたちの僕は母に頼んで牛乳ガユをつくってもらった。風邪をひくたびに牛乳がゆをつくってもらって食べていたような気がする。その話を小学校で隣の席のミズホちゃんに話したら「うえ、きもちわるい、牛乳とごはんって合わないじゃん」と言われ、さらにその翌日「家に帰ってお母さんに話したらお母さんも気持ち悪いって言ってたよ」って言われて、それでだいぶショックを受けた記憶がある。たしかにあんまりおいしいものじゃなかったな、牛乳がゆ。日本の米は牛乳がゆに向いていないのだろうか。

 地蔵盆。僕は今年度は隣組の組長なので、お地蔵さんの前に張ったテントで町内の人たちが持って来るお供えを受け取ったり、おかえしにお供え餅を渡したり。お地蔵さんには1000円から5000円くらいのお金をお供えすることになっていて、そのお供えをした人がお返しにお餅と曼荼羅を受け取る、という決まりになっている。去年までの僕はそのシステムを理解していなくて、お地蔵さんにお線香だけあげてはお餅を横目で見ながら帰ってきて、それで「今年もお餅をもらえなかったね。どうすればあのお餅をもらえるのだろうか」と妻とふたりで悔しがっていたのだった。

 あと二日で娘の誕生日が来る。娘が生まれてから1年がたつことになる。0歳の娘に会えるのもあと二日。28日が来れば、今回の人生ではもう二度と0歳の娘に会うことができなくなる。