おとこたち

 今日はめずらしくひとりでロームシアターまでハイバイの公演「おとこたち」を観に行く。四時半頃に家を出る。太陽がすこし傾いて気温がだいぶ落ちついて、だけど寒くなるわけでもなくてTシャツ一枚で自転車に乗り、空の青とか葉っぱの緑とか川がキラキラ光っているのとかがひたすら延々と続く五月の加茂川を走る、というのがとても気持ちがよくて、走りながら僕は五月の天気のいい日に賀茂川を自転車で走るっていうのが自分の人生のいろんな時間の中でかなり好きな時間だなー、と思う。賀茂川で遊んでいる人たちがだいたいみんな笑っていたりリラックスしていたりするのもいい。冬だと寒くてあまり人がいないし、いたとしても分厚いコートにくるまって寒そうに縮こまって歩いてるのを見るとこっちまで寒くなるし、じっさい冬の風が吹く賀茂川を自転車で走るとかなり寒い。夏は、夏もかなりいいんだけど、やっぱり自転車を漕ぐと暑いし汗だくになるのはスポーツをしたくて自転車を漕ぐわけじゃないので汗でべたべたとズボンが脚にはりつくのとかがちょっと困るし、草の上でごろごろしている人たちもリラックスというよりはぐたーっとしてだるそうだ。桜の時期もだいぶ良かった。けど、桜の季節だとまだ緑の葉っぱがすくないし、花見の宴会をしている人たちもすこし寒そうにちぢこまっているしやっぱし五月の新緑の季節が一番いい。秋もいいけど秋は枯れ葉がさみしい。五月の明るい光はなんでこんなに明るいのか、草とか木とかの緑色が光を出しているのか空気が光っているのか。子供を連れたお父さんお母さんが飛び石を渡って行く、大学生が集まって川に落ちたボールを見ている、ベンチでおじさんが寝ている、三線を弾きながら沖縄っぽい歌をうたいながら歩くおじさんがいる、橋の下でダンスの練習をする女の子がいる、草の上にシートをしいてごろごろと寝転ぶ家族づれがいる、ゲートボールみたいなのの練習をするお爺さんが入る、こういう人たちがぜんぜんいなくて誰もいない五月の川をただ自転車で走る、というのはそれはそれで景色に集中できていいのかもしれないけど、でもやっぱしつまんないんだろうな、こういうふうに川を走ったり街に出かけたりするのは、楽しそうにしている人たちの中に入って行って、自分もそこで楽しまれている楽しさの一部になったような気分になる、というのが楽しいから僕はこうやって賀茂川で自転車に乗ったり街に行ったりするのか。
 ハイバイはひたすらうまくて、さすがプロだ、さすが東京の劇団だ、と感心し通しだった。俳優もうまいし、戯曲も演出もうまい。老いとか暴力とか性とか親子についてとかいろいろ考えさせられる。老いつつある自分の両親のことを考えたり、これからの自分の子育てのことを考えたり。どのセリフをどこで反復するといちばん効くか、いちばん観客の心をつかむか、ということがちゃんとわかっていて、ここぞというところで丁寧に効くセリフを出して来る、どこまで言葉でしゃべってどこで口を閉じ観客に想像させるか、というラインが絶妙、もうほとんど職人技で、まいりましたとしかいえない。東京ではこういう演劇が日夜つくられているのならばこれはもう僕なんかの出る幕はないな。けど、不倫とか老いとか反抗期とかの扱い方はワイドショー的というか、どこにでも転がっている話というか、どこかで聞いたことがある話というか、すでに知っている不倫や老いだったという気がして、がつんと心を揺さぶられる、ということがなかった。ただ、その不倫や老いの見せ方がめちゃくちゃうまくて、すごいものを見たなあ! という満足感はかなり強い。
 帰り道、夜の十時くらい、三条の橋から賀茂川に降りようとするとものすごい人ごみで、川でなにかのイベントでもやっているのか、と思ったが、どうもそうではないらしく、大学生とか若い人たちが飲み屋を出た後でまだ帰りたくなくてとりあえず川に降りてしゃべっている、というだけみたいだったのだけど、これがぜんぜん通り抜けられないほど密集していて、街の若者の週末の夜はこんなにもにぎわっているのか! と圧倒された。みんなすごく楽しそうだけど、夕方の賀茂川みたいにリラックスした楽しさがこちらに伝わってくる、という感じじゃなくて、自分がもうこの人たちみたいに若くなくて、この楽しそうな熱気ムンムンの集団にはもう入っていけないのだな、というさみしさ、疎外感みたいなのを感じて、はやく妻と娘の待つ自分の家に帰りたい。