3月10日

 この空気には懐かしい匂いがする。めんどくさいことが何もなかったあの頃かいだのと同じ匂いがする。保育園からの帰り道、母親と手をつないで歩きながら娘はそんなことを言った。太陽はもう沈んだけどまだ空が少し明るい。ほんの一、二週間ほど前までは冬の冷たい空気ばかりが鼻の穴にツンと感じられただけだったのに、三月も半ばになった今では空気に花の匂いが充満している。何の花? 桜? 桜はまだ咲かない。沈丁花? 沈丁花が咲いたのはもうだいぶ前だ。梅? 梅かもしれない。ヒヤシンス? 台所に三つ並べて置いていたヒヤシンスの球根は急にぐんぐん伸び出して今ではピンクと紫と白の花を咲かせている。暖かくなっていろんな花がちょこちょこ咲いて来て、いろんな匂いを空気に放出しているんだね。

 生まれてからまだ六年と少しだというのに、娘の人生にはそんなにもめんどくさいことが集まって来ているのか。油断した。娘がめんどくさいことなんかを何も感じずに過ごせるぐらいに親である私が見張ってなくっちゃダメだったんじゃないか。娘をめんどくさいことから守るのが私の使命だったんじゃなかったか? いや、そんなの無理だ。無理だし、そもそも娘にとっては親自体がめんどくさい。お風呂に入れだの、テレビを見過ぎるなだの、そろそろ一人でトイレに行けるようになれだの、チョコレートを食べすぎると虫歯になるだの、いちいちうるさくめんどくさいのが親の私だ。保育園もめんどくさい。もうままごとで赤ちゃんの役を演じるのはいやだ。いやだし恥ずかしい。だのになんでいつも私が赤ちゃん役なのか? そうじゃなければ「二番目のお姉ちゃん」役。「一番目のお姉ちゃん」役はいつも&&ちゃんが演じる。%%ちゃんはいつもお母さん役を演じて私たちにあれをしろ、これをしろ、と指示を出す。ああめんどくさい。

 この空気には懐かしい匂いがある。春になりかけのこの空気の匂いをかぐと私は五歳の私に戻る。五歳の私は私の両親の家の玄関を出て左に坂を登る道の石垣の上に腰掛けている。午後の日差しが暖かい。石垣には薄紫のシバザクラが咲いている。私はさっきからずっとアリンコを見ていたんだった。今日は日曜日なのだろうか。日曜日はテレビで「マクロス」を見る。「マクロス」は「超時空要塞マクロス」だ。超時空要塞は宇宙船だ。宇宙に出て巨人の宇宙人と戦う。ロボットに変形する戦闘機「バルキリー」がすごくかっこいい。そもそも「バルキリー」という言葉の響きがかっこいい。アリンコを見ながら私はさっきまで見ていた「マクロス」のことを考えているのだろうか? 黄色のバルキリーの胸についているあの骸骨のマーク。ドクロの下にぶっちがいの骨がついてるやつ、あれはかっこよかったなあ・・・。

 もちろん私は今ここにいる。今ここは2020年の京都だ。1983年の群馬の両親の家ではない。しかし五歳の私は五歳の私の今ここにいる。あの時の今ここ、というのが今でもあのままであの場所に今でもある。五歳の私は今でも日当たりのいい石垣に腰掛けてアリンコを見ている。小学校に入って「好きな動物の絵を描きましょう」と言われたときにアリンコの絵を描いた。私はアリンコが好きだったのだ。めんどくさいことは何もなかった。時間はたっぷりある。日がかげりちょっと寒くなって来たら家に入ってお母さんにホット牛乳を作ってもらう。

 私が死んだ後も五歳の私は石垣で日向ぼっこを続けるだろう。宇宙というのはそういう風になっているはずだ。宇宙というのは膨張し切ったら今度は収縮を始める。その時時間が逆戻りする。ビッグバンまで時間が戻ったらまた宇宙が始まる。時間は何度も進んで戻って進んで戻って、何度も同じ宇宙を永遠に繰り返す。同じ時間が無限に進んで戻る。永遠に繰り返す。いや、そんなの嘘だ。宇宙はいくら膨張しても収縮することはない。永遠に膨張し続ける。だから一度すぎた時間は二度と戻らないんだ。いろんな宇宙の話をいろんな人が言っている。しかし彼らが言う宇宙は私が言う宇宙とは違う。私の宇宙は五歳の私が未来永劫あの石垣に座り続ける。めんどくさいことを何も知らない私が春の匂いをかぎ、暖かい太陽の光を浴びてぼんやりとアリンコを見つめ続けている。

 マクロスの中は街になっていたのが奇妙だ。宇宙船だと言うのに。宇宙船の中に普通の人が住んでいて、街を作って買い物をしたりコンサートに行ったりしている。宇宙人と戦争中だって言うのに。いや、戦争中だからこそ買い物をしたりコンサートを聴いたり、何か楽しみを見つけなくちゃやれないのか。暗い気持ちになっていてもしょうがないもの。アイドルのミンメイが歌う歌を私は今でも覚えている。

 

 キューン キューン キューン キューン

 私の彼は パイロット